つれづれなるままにバンド・オン・ザ・ラン
Tribute Vlog for Band on the Run 50th Anniversary Edition
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ポール・マッカートニー&ウイングス
のトリビュート LIVE フェスティバル
WINGSFAN をプロデュースしてい
ます。このブログは私が日常生活
の中で興味を持ったことやウイン
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情報などを毎日掲載しています。 

wingsfan@wingsfan.net


銀座クラブ伝説のママがビートルズの「ホテルへカム・トゥゲザー」の誘いを断った「夜の物語」
ビートルズ

日本に繁華街は数多くあれど、夜の社交場として別格の歴史とブランドを誇る街、それが銀座である。大正時代のカフェーを源流とする高級クラブはいつしかネオン街を形成し、1980年代から90年代前半に最盛期を迎えた。当時、銀座には大小合わせ3000店ものクラブがひしめき、バブル時代の栄華を象徴する舞台ともなった。そんな銀座には今も語り継がれる伝説のクラブが数多くある。なかでも、川口松太郎原作の映画「夜の蝶」(1957年公開)のモデルになった川辺るみ子ママの「エスポワール」、京都から銀座に進出し「空飛ぶマダム」と呼ばれた上羽秀ママの「おそめ」、そして後発ながらスターホステスを多数輩出し、後年に作詞家、直木賞作家としても名を馳せた山口洋子ママの「姫」は屈指の名店であったと言えるだろう。「私が山口洋子ママの「姫」にスカウトされたのは1964年のことでした」。そう語るのは銀座で半世紀にわたりクラブ「順子」のオーナーをつとめたこの街の語り部、田村順子ママである。「私が「姫」に在籍していた期間は2年ほどに過ぎませんが、洋子ママが亡くなる2014年まで、半世紀にわたり深い関係が続きました。私にとって山口洋子さんはかけがえのない人生の師であり、恩人なのです」。

「姫」の始まりは木造物件の2階
1937年生まれの山口洋子は順子ママより4歳年上にあたる。1957年に東映ニューフェイス4期生(同期に佐久間良子、山城新伍など)に選ばれ女優デビューするが、その前年、19歳の若さで銀座に小さなクラブ「姫」をオープンさせていた。「姫」という店名の由来は当時の山口洋子のニックネームである。黒澤映画「隠し砦の三悪人」(1958年公開)に登場する負けず嫌いの「雪姫」(上原美佐)のイメージを重ね合わせ、周囲の男たちは山口を「銀座の姫」と呼ぶようになった。女優としては挫折した山口洋子だったが、持ち前の話術と人間洞察力でクラブママとしての才能を発揮。銀座7丁目の木造物件2階からスタートした「姫」は8丁目、さらに人気の旧電通通りへと順調に進展していく。後発のクラブだった「姫」が人気を博した最大の理由は「ホステスの品質」にとことんこだわった山口洋子の店づくりにあった。当時の銀座ホステスは教養や社会常識が必須とされたが、それらが少々欠けていたとしても男を引き寄せる力のある美女を採用し、一流のホステスに育て上げる。「綺麗な女は人殺しをしたって許される」とまで言い切った洋子ママの審美眼は正確無比だった。「夜間飛行」のモデルになった「まこと」、ミス・ユニバース日本代表の飯野矢住代、梅宮辰夫の最初の妻である大門節江、今なお銀座の老舗クラブ「麻衣子」のオーナーに君臨する雨宮由未子など、華々しい光を放つホステスたちがこの店に集まってきた。東京・巣鴨のお寺の娘として生まれた田村順子は高校を卒業後、日本楽器(ニチガク=現在のヤマハ)の銀座支店に勤務する。端麗な容姿を買われ受付に配属されたものの、受付の電話に男たちからの「デート依頼」が殺到し、社の業務が著しく停滞。やむなく「受付失格」を宣告されたOL順子は1964年に「姫」のホステスとなる。「2年間、無遅刻無欠席を続けた私は洋子ママからは「順子ちゃんは姫学校の優等生」とおだてられていました。私もそれが嬉しくて、自分のことよりも洋子ママの喜ぶ顔が見たいがために働いていたような気がします」(順子ママ)

ママにそういうことしないで! やるなら私にしなさい!
若きオーナーママとして君臨した山口洋子が順子の才能を認めたのは、ある些細なできごとだった。順子が入店して間もないある日、ある酔客が洋子ママにしつこく絡み始め、店内でキスを迫ったことがあった。次の瞬間、洋子ママは何者かに突き飛ばされ、椅子から転げ落ちた。後ろに立っていたのは和服姿の新人ホステス順子だった。「ママにそういうことしないで! やるなら私にしなさい!」。腕をまくり、自分の頬を指さしてみせた順子を見て、あっけにとられた洋子ママ。店内は静まり返り、毒気を抜かれた酔客は、すごすごと店を退散していった。後に洋子ママは「あのとき、順子ちゃんは必ずこの世界で生きていけると思った」と順子に打ち明けたという。洋子ママは順子を「姫」のエースとして育て上げ、順子もまたその期待に応えた。2人の信頼関係を象徴するようなできごとが起きたのは1966年のことである。ある日の夜、店内で接客していた順子の耳に遠くに座っているはずの洋子ママの声が聞こえてきた。「何と言われても順子ちゃんだけはダメです!」。順子は必死で聞き耳を立てた。「この店のことはすべて私が決めるんです!」。順子ママが振り返る。「結局、何を言っているのかよく聞き取れませんでしたが、私の名前を大声で話していたことだけは分かりました。私は何か大きなミスをしてしまったのではないかと心配になり、後で洋子ママの近くにいた先輩にそれとなく事情を聞いたのです」。

田村順子ママ、山口洋子ママ

ビートルズよ。分かってんの?
順子は先輩のホステスに聞いた。「今日、洋子ママが怒っていたように見えたのですが、何か問題でもあったのでしょうか」「ああ、気にすることないのよ」「でも気になります」。ホステスは周囲を見渡すと、声を潜めて事情を語った。「今、ビートルズ来てるでしょう? 今日もヒルトンに泊まっているらしいけれど、ビートルズを日本に呼んだというお客さんがね、ホテルに行ってくれる女の子を探してたらしいの。順子ちゃんをご指名だったみたいだけど、ママが「それだけはダメです」って」「そうなんですか...」「そうなんですか...って、あなた。ビートルズよ。分かってんの?」。

銀座で色を売ってはいけないというのが洋子ママの哲学でしたから
世界的な人気を誇る英国のロックバンド、ビートルズが初来日を果たしたのは1966年6月のことだった。3日間にわたる公演(日本武道館)は伝説となり、彼らの一挙手一投足はこと細かに報じられ、滞在中の日本はまさに「ビートルズ一色」。だが、幸か不幸か順子はそのスーパースターにそれほど関心を持ち合わせていなかった。「私は、ビートルズについて深い知識もありませんでした。ただ、話を聞くとビートルズの招聘に深くかかわった業界の男性が「姫」のお客さんで、洋子ママにビートルズを「接待」する女性をリクエストしていたようです」。それがどのような意味での「接待」なのか、いまとなっては確認する術はない。だが、洋子ママが「エース」の派遣をきっぱりと拒否したことは間違いなかった。「いま思えば、あれだけの世界的スターと会えるなら、ぜひ行きたいという女の子もたくさんいたはずだったと思います。ただそのとき、洋子ママは「姫」から女の子を出さなかったようでした。銀座で色を売ってはいけないというのが洋子ママの哲学でしたから、私たちを守ってくれたのでしょう」。実は順子ママの証言を裏付ける記事がある。当時、複数の週刊誌が「4人の銀座ホステスが極秘にビートルズの部屋に入った」と報道しており、中でも「アサヒ芸能」は「贈呈された日本女性4人の告白」(1966年7月17日号)なるスクープを掲載。登場する女性たちの談話は匿名あるいは源氏名であるが、その女性たちを「調達」したとされる協同企画エージェンシー(現・キョードー東京)代表の嵐田三郎が実名で取材に答え、女性4人については「私の知り合いの子たちで、まあ陣中見舞いといった感じのものですよ」と銀座ホステスであったことを認めている。記事によれば、ビートルズ公演の現場を取り仕切っていた嵐田は当初「西銀座のH」でママに「ビートルズと食事をしてくれる女の子」の選定、派遣を依頼したが断られ、その後近くの別の店で交渉を成立させたとある。真偽のほどは定かでないものの、順子ママの記憶と合致する部分が多いことは確かだ。銀座の名店「姫」のナンバー1という看板をひっさげ、順子は1966年に24歳の若さで独立、銀座6丁目に「クラブ順子」を開店する。「ニチガクの受付として働いていた当時、私の月給は8000円でした。「姫」で実績を積むと、洋子ママがお給料を小刻みに増額してくれて、2年後には日給で1万2000円になりました。24歳で独立し自分のお店を始めることになったときも、洋子ママは惜しげもなく常連のお客さんに「順子ちゃんのお店、行ってあげてね」と宣伝してくださいました。いくら私のことを可愛がっていたとはいえ、自分の店のお客さんを紹介するなど、簡単なようでなかなかできないことです」。

どんな高価な衣類や宝石より大切なもの それは...
順子ママの手元には700通を超える洋子ママからの手紙が残っている。失恋したとき、家を買うとき、結婚を考えたとき ― いつも最初に相談する相手は洋子ママだった。「独立してから何十年も、私は大晦日の夜、日付が変わる深夜12時ピッタリに洋子ママの自宅に電話をかけ、新年の挨拶をするのがお決まりのセレモニーでした。誰よりも早く洋子ママと話すことで、また新しい1年が始まっていくことを実感するのです」。1985年、「演歌の虫」「老梅」で直木賞を受賞した山口洋子は「姫」の経営から離れ、文化人としての活動に軸足を置くようになる。「姫」時代から球界と関係の深かった山口は、デイリースポーツで軽妙なコラムを連載し、しばしばグラウンドにも姿を見せ、往年のスター選手たちと談笑した。「私にとってどんな高価な衣類や宝石より大切なもの ― それはクラブ順子が30周年を迎えたとき、洋子ママからいただいた言葉です」。1996年、帝国ホテルで開かれた「クラブ順子30周年記念パーティー」。作曲家の平尾昌晃、作詞家の星野哲郎、羽田孜元総理、写真家の秋山庄太郎、俳優・神田正輝、ヴァイオリニストの佐藤陽子らが集まったその会場で、山口洋子が順子ママにメッセージを送った。「この商売はいかに長く頑張ろうと、公的な誉め言葉も拍手もない、一面とても寂しい仕事です。だからこそ、「順子ちゃん、よくやりましたね」と、今ここで晴れ晴れと誉めてあげたい」。順子ママが振り返る。「クラブのホステスは必ずしも社会的に評価される仕事ではありません。華やかなように見えて、その底流にはある種の悲しみが流れているのです。私と洋子ママの絆は、その女の悲哀のなかに築かれたものでした。作詞家、小説家として幾多の作品を世に残した洋子ママですが、その意味では私を含め「姫」から巣立っていったホステスたちもまた、洋子ママの作品であったと思います」。

私にとって、クラブママという仕事は天職だった
五木ひろしの「よこはま・たそがれ」や中条きよしの「うそ」など、多くのヒット曲の作詞も手がけた山口洋子は2014年、パートナーで「キックボクシングの生みの親」である野口修に見守られ、静かに息を引き取った(享年77)。コロナ禍の2020年にクラブ「順子」を閉じた順子ママは今、こう語る。「私にとって、クラブママという仕事は自分の天職であったと思っています。ただ、その天職とは、数あるたくさんの仕事のなかから、結果的に自分がいちばんやりたかった仕事を選ぶことができて、幸運だったという意味ではないのです。マルチな才能を持ち合わせていた洋子ママと違い、私にできるのはこの仕事しかなかった。それを理解してくれて、この世界に導き生かしてくれたのが洋子ママでした。私にはこれしかなかった ― そのたった1つだけの仕事と引き合わせてくれたことに、私は今も深く感謝しているのです」。夜の銀座で輝いた2人の女性の物語である。

山口洋子ママ、順子ママ、野口修

Thanks! 文春オンライン

加山雄三、ジョン・レノンとの逸話を披露
加山雄三

11日に86歳の誕生日を迎えた加山雄三。その記念にラジオ「くにまる食堂」(文化放送)の公開収録に登場し、ファンを前に1時間余りのトークを繰り広げた。加山の生まれた1937年といえば、日中戦争が勃発した年。苦労の多い時代であったことは間違いないが、その口から語られたのはむしろ、愉快な歴史的証言や逸話の数々だった。

ビートルズにすき焼きの食べ方を教えた
例えばビートルズが来日した際、加山が宿泊先のホテルを訪ねて交流を深めた、というのは有名な話だが、その時にメンバーにすき焼きの食べ方を教えたのだという。箸の持ち方、卵の使い方等々。「ジョン・レノンがさ、椅子をどけて、テーブルに顎をのせて正座するんだよ。お行儀が悪いよって言ったら、「いいんだよ、俺はいま日本人の気持ちを味わっているんだ」だって」と楽しそうに当時の逸話を披露してくれた。

名フレーズ「幸せだなァ」が生まれるまで
また、「君といつまでも」の有名な「幸せだなァ」という語りの部分が誕生した経緯が明かされる一幕も。「レコーディングで聴いた、間奏の部分のオーケストレーションが素晴らしかった。それで、「幸せだなあ」って口に出したら、「それでいきましょうよ!」ってなったんだよ」。トークは昔話だけにとどまらない。最近、桑田佳祐・原由子夫妻と、山下達郎・竹内まりや夫妻に加山夫妻が招かれて、皆で中華料理を食べたという豪華なエピソードも飛び出した。彼らは皆「若大将」に影響され、リスペクトしているということのようだ。「うれしかったねえ。音楽の話なんかしないよ。この料理うまいねえ、とかそんな話」。

最後に語った「長生きの秘訣」
この日、収録の行われた場所は、銀座に昨年オープンした「加山雄三ギャラリー」。自筆の絵画や、ゆかりの商品が販売され、愛用のギター、秘蔵写真など貴重なコレクションが並ぶ。ファンの方ならきっと、見るだけで「幸せ」を感じるに違いない。コンサートからは昨年で引退したものの、今も曲作りや絵画制作など、日々忙しくしているというから、若大将は実に幸せそう。最後に幸せに長生きを楽しむ秘訣を語った。「奥さんをはじめ、人に感謝する気持ちをいつも持つことだよ。周りにスタッフがいればスタッフに頭を下げる。そういう気持ちを失わない。怒ってばっかりはダメだな。怒りは命を縮めていくんだ。感謝することは大事だよ。幸せだなあ、と思う気持ちを忘れてはいけないよ」。これに沸いた観客からの拍手に対しても「ありがとう、ありがとう」と繰り返し感謝の言葉を口にしたのだった。

Thanks! 週刊新潮

高田文夫が思い返す1966年ビートルズ来日
ビートルズ

放送作家、タレント、演芸評論家、そして立川流の立川藤志楼として高座にもあがる高田文夫が週刊ポストで連載するエッセイ「笑刊ポスト」。今回は生体験したビートルズ来日、走るアベベ、古今亭志ん生についてつづる。

私はマスコミの人間として、放送人として、作家として誇れる事がみっつある。私のこの大きな目で、生であのビートルズを、そしてアベベ(東京五輪)を、その上、古今亭志ん生を見たと自信を持って言える事だ。何でも見たがるおっちょこちょいを絵に描いた様な人生だが、生体験をしているか、してないかで、このマスコミ人生、大変な差が出る。そこで1966年日本にやってきたビートルズ。その武道館公演を追ったドキュメントが『ミスタームーンライト』。ビートルズを呼んだ人、さわぐマスコミ、反対する右翼、チケットを作る人、テレビにする人、前座で歌う内田裕也、尾藤イサオ...いろんな人の想いが語られる(私にとって戦後一番大きな文化的ニュースだと思う)。衝撃、熱狂。高3の私は父に「武道館見たら受験勉強始めるから1枚だけ取って下さい」と哀願した。父は出版社を経営していたのでツテで1枚すぐ取ってくれた。父の力を見直した。ビートルズ、それは、ミスタームーンライト。月明かりのように私の人生を照らしてくれる、あの瞬間を体感して下さい。日本にいたもうひとりのビートルズと言われるのが(言われる訳がない)、超・天才「マイブーム」のみうらじゅん。みうらが東北を旅していたら田舎のおばちゃんが声をかけてきた。「ジョン・レノンさんですよネ?」。みうらは「ア...ハイ」と言った。これは本当。ラジオに来てもらって「今年ブームになるものは?」と問うと「3位マドロス、2位オヒョウ」。みうらは寿司屋へ入ると「エンガワ」を頼むが待てよ。あんな小さなヒラメなのに何でこんなに出まわるのか。調べてみたらオヒョウという巨大な魚。うまいからいいやと食べている。そして「1位はコロナの間ずっと描いていた仏画などが100枚を超えた。コロナ画です」。この物凄い量の絵などを展示する「みうらじゅんFES マイブームの全貌展」が4月15日から5月7日、所沢市民文化センターで開かれる。もうひとりのビートルズも圧巻です。守備範囲の広さをみせてビートルズから和ものの浪曲まで。講談で神田伯山、浪曲で玉川奈々福が古い芸能を新しく聞かせて若い人にも人気。「奈々福、独演。」が2月11日(祝)18:00、12日(日)13:00。場所をきいておどろいた。銀座・観世能楽堂(GINZA SIX B3F)。能の舞台に浪曲が。もっとおどろいたのは12日のトークゲストがこの私だという事だ。もし、よろしかったら浪曲でも...

Thanks! 週刊ポスト

1966年ビートルズ日本武道館公演の前座(上)
ビートルズ

1966(昭和41)年、ビートルズは最初にして最後となる日本公演のために来日した。人気絶頂だったビートルズの日本武道館でのライブを、他の誰も経験できない「特等席」で、楽しんだ人物が2人いる。尾藤イサオさんと内田裕也さんだ。尾藤さんと裕也さんはともにビートルズ日本公演の前座を務めた。尾藤さんは証言する。「裕也さんと2人でステージの下でビートルズを見たんだ。日本のアーティストだと分かったのだろう、ジョージ・ハリスンがぼくらを見て、手を振ってくれた。日本側の出演者はみんな列を作って順番を待って、出番が終わったら楽屋に帰らなければいけない時に、裕也さんと2人でステージの前に行って、5回のうち4回はそこで見た。もう1回は、東芝の招待でスタンドから見た」と尾藤さんはいう。尾藤さんと裕也さんはジャッキー吉川とブルー・コメッツとブルージーンズをバックに、まず「ウェルカム・ビートルズ」を2人で歌った。これはビートルズを歓迎するためにと裕也さんがアイデアを出して、安井かずみさんが詞を書き、ブルー・コメッツの井上忠夫(後の井上大輔)さんが作曲したオリジナル作品だ。ビートルズ来日の「一週間前に案が出て、曲ができた。だから、歌詞をあまり覚えていなかった」と尾藤さんは振り返った。「それまで大規模会場だと思っていた日劇のキャパシティーが3000人、武道館が1万人と3倍だった。「ウェルカム・ビートルズ」で一人一人の名前を呼ぶと、「キャー」ってなって、思ったのは「1万人の声はすごい」なって」。裕也さんは、ザ・ビートルズ・クラブが2016年に行ったインタビューで「ウェルカム・ビートルズ」について、「あれ恥ずかしかったよな。なんか幼稚園みたいでさ。でも、あれは俺のアイデアなんだよ。ビートルズが来るのに何かコミュニケーションがないと。ただ前座で出ましただけなんて嫌だね、って俺が言ったんだ。それでブルー・コメッツの井上大ちゃんが曲を書いて、詞は半分くらい俺も書いた」と語った。

尾藤イサオ

尾藤さんは、ビートルズを「生で聞いたら、これがかっこいいんだな。出て来て、後ろ向いて、チューニングして、手を上げるだけで、客がキャーとなった。初めはおかっぱで、ボンボンで、不良的なカッコよさがないって思っていたのだけれど、すごいと思った」という。裕也さんは、「いや~感動したな。こんな音楽が実際にあったんだというね。まず、ステージに出てきて、4人がパッとそろった瞬間には感動したよね。ある種のエクスタシーを感じた。「うわ~本物だ」って圧倒されてね」と語っていた。「本当にうれしかったのは日本公演が「ロックン・ロール・ミュージック」からスタートしたこと。一生忘れないよ。ゾクゾクしてね。チャック・ベリーの曲だよ・・・まさかビートルズが日本公演の1曲目にこの曲やるなんてさ。ジョン(・レノン)はロックンロールに尊敬の念を抱いていたからね」と裕也さんは話した。尾藤さんは他に「ダイナマイト」を英語で歌った。「イギリスはクリフ・リチャード、アメリカはエルビス・プレスリー、フランスだったらジョニー・アリディと当時はいわれていた。(ビートルズは)英国なので(クリフ・リチャードを)選んだ」と尾藤さんは説明した。当時の尾藤さんのステージ衣装は、赤シャツに GジャンとGパンの上下で、髪型はプレスリーに憧れていただけにリーゼントで決めていた。一方、髪の毛を7・3分けにして、黒いスーツの上下に身を包んだ裕也さんは、アニマルズの「朝日のない街」を英語でパフォーマンスした。昼と夜の公演の間に裕也さんが「尾藤、俺たちもただ見てるんじゃなくて、日本のアーティストから記念品を渡すべきだ」って。「えっ、どういうことですか?」って言ったら、「何か買って渡そう」という話になったと尾藤さんはザ・ビートルズ・クラブに語った。「ぼくと裕也さんの2人で銀座のJUNに行って、Lサイズのストライプシャツを4枚買った。帰って、ビートルズのローディーに「プレゼントをしたい」と言うと、「カモン」と言う。彼らの楽屋に向かうと、楽屋の目の前で、協同企画の梅野っていうマネージャーが「警備をこれだけ厳重にしているのに、冗談じゃない」と間に入ってきた」と尾藤さんはいう。それで裕也さんと梅野さんが取っ組み合いになった。殴り合いにこそならなかったものの、結局、買ってきたシャツはローディーに渡した。裕也さんは「ビートルズの連中にはさァ、尾藤なんかといっしょにシャツをあげたんだけど・・・ヤツら、着てるかなァ」と言う。

悲しき願い - 尾藤イサオ

尾藤さんは苦労人だ。10才から16才まで、鏡味小鉄さんのもとに奉公に出た。尾藤さんは自らの芸を「ロカビリー曲芸」と称して、細いマンボズボンをはき、朝鮮動乱で亡くなった人のリーバイスなど、Gパンのダメージがあるものを進駐軍が上野・アメヤ横丁にて100円程度で売っており、それを買ってきて、着ていた。尾藤さんは「マック・ザ・ナイフ」の日本語カバー「匕首マッキー」で1964年にレコード・デビューした。歌唱力に定評があり、その前年には「第20回記念日劇ウエスタンカーニバル」でプレスリー賞を受賞した。再び64年に戻ると、アニマルズのカバー「悲しき願い」が大ヒットし、一躍トップスターの座に躍り出ていた。裕也さんは1957年、「ブルー・キャップス」というバンドを結成。その後、「ブルージーン・バップス」、「サンダーバード」などのグループを経て、「寺内タケシとブルージーンズ」にボーカリストとして参加した。ビートルズの日本公演時、演奏スタイルやギャラをめぐって裕也さんと「衝突」した寺内さんはブルージーンズを離れていた。「共演、共演って、俺はいっているけど・・・なぜ外人の前に、日本のバンドが出ると、前座といわれるのか? 冗談じゃねえ、こっちは、本気でロックンロールしてるんだぜ」と裕也さんは自伝「俺はロッキンローラー」で語っていた。でも同時に裕也さんは言う。「俺は、ビートルズと共演したことや、その前のベンチャーズと共演した事だけは、生まれてきた子どもに、誇りをもって話せることだと思うね」。裕也さんは、ビートルズがやって来たことで日本の音楽は大きく変わったという。「自分の人生、ロックンロール・ライフの中でも本当に重要な出来事だった。ビートルズの前座に出られたってことは超ラッキーだったし、因縁を感じた。まあ、一言で言うと「誇りと屈辱」だったよ。分かりやすく言うと、ビートルズを観て「おぉ~すげえな」っていう気持ちと、自分のやっていることとの差がね。ビートルズからは音楽だけじゃない、すごくカルチャー・ショックを受けたよね・・・ビートルズ以降、ある意味世界的なバンドは出てこない・・・早くビートルズを超えるような、カルチャー・ショックを与えるバンドが出てきてほしいよね」と裕也さんは話していた。尾藤さんはいう。「1955年くらいにプレスリーが出てきて、10年も経たないうちにビートルズが出てきた。ベトナム戦争があった時代に「LOVE」を歌ったというね・・・若い人たちが絶対必要とする何かがビートルズにはあったんでしょう・・・それが何かってのは分からないんですけど・・・(そして)今でこそコンサートに普通に使われていますが、日本武道館で最初に歌えたことは、言ってみればビートルズさまさまになるのかな」。尾藤さんと裕也さんは1964年に「ロック、サーフィン、ホット・ロッド」をリリースした。「ダイナマイト」が収録されていた。翌年にも2人は「レッツ・ゴー・モンキー」を発表。「悲しき願い」「朝日のあたる家」「キャラバン」といった曲とともに、2曲のビートルズのオリジナル曲「ヘルプ」と「アイム・ダウン」が収められていた。この2枚のアルバムは、グループ・サウンズ(GS)が生まれる前の「日本のロック」として日本戦後芸能史にさん然と輝く一里塚ともいえ、ビートルズとの共演につながっていく伏線ともなったのである。

ロック、サーフィン、ホット・ロッド

Thanks! OVO/桑原亘之介

わずか40秒だけ! ビートルズの前座で仲本工事が歌うことになったワケ
ビートルズ日本公演の前座務めるザ・ドリフターズ

18日の交通事故が原因で19日夜、81歳で生涯を閉じたザ・ドリフターズのメンバー・仲本工事は1966年、列島が沸いたビートルズ来日公演の前座を務めた。仲本は学習院大2年の1962年、訪れたジャズ喫茶で演奏していたバンドに飛び入り参加。そのバンドのドラマーが2歳年下の加藤茶だった。同大3年時、ジェリー藤尾の専属バンドの歌手オーディションに合格し、高木ブーと出会った。そして大学4年の1964年、当時人気バンドだったザ・ドリフターズから声がかかった。それから2年後、あのビートルズからオファーを受けたことについて、仲本さんは「最初にオファーを受けたときには「40分間やってくれ」という話で、かなりの数のネタを考えていた。でも、本番1週間前には持ち時間が20分になり、2~3日前には10分になった。さらに、前日になって「もっと短くしてくれ」。そして、当日になったら「40秒にしてくれ」となった」と語っていた。40分が40秒になるという衝撃的な展開にもドリフは〝応えて〟みせた。「40秒っていったら、やる曲なんて限られちゃう。ボクらのネタの中で唯一、その時間内に終われるのが「のっぽのサリー」という曲で、そのネタをやるときに歌うのがボクだったんだ。偶然に偶然が重なった結果〝ビートルズの前座で歌う〟という大役がボクに巡ってきたワケ」。会場の日本武道館のステージは階段の上り下りが大変で、実際に演奏したのは30秒ぐらいだったという。ちなみにビートルズと楽屋が別なのはもちろん、廊下の真ん中が幕で仕切られていてビートルズ専用の通路が設けられたぐらいだからすれ違いようもなかった。出番が終わって楽屋に戻った後も、ビートルズの演奏を堪能したわけでなく、ワーワーという歓声しか聞こえなかったという。あまりに何ごともなかったから「当日の思い出が残ってない(笑) 後年になってだよ。あっ、すごいことだったんだなって思ったのは」と振り返った。まったく顔を合わせることがなかったとはいえ、大きな〝勲章〟になったことは間違いない。


Thanks! 東スポWeb



ナウ・アンド・ゼン - ビートルズ ナウ・アンド・ゼン (Now and Then)
 国内盤 CDシングル
 輸入盤・国内流通仕様 7インチ・シングル
 輸入盤・国内流通仕様 10インチ・シングル
 輸入盤・国内流通仕様 12インチ・シングル
 輸入盤 7インチ・シングル
 輸入盤 10インチ・シングル
 輸入盤 12インチ・シングル
 輸入盤 CDシングル
 輸入盤 カセットテープ






ザ・ビートルズ 1962年~1966年、ザ・ビートルズ 1967年~1970年 (2023エディション) ザ・ビートルズ 1962年~1966年、ザ・ビートルズ 1967年~1970年(2023エディション)
 国内盤 4SHM-CD
 国内盤 4SHM-CD + Tシャツ
 国内盤 4SHM-CD + トートバッグ
 輸入盤・国内流通仕様 6LP
 輸入盤・国内流通仕様 6LPカラー
 輸入盤・国内流通仕様 6LPカラー + Tシャツ
 輸入盤・国内流通仕様 6LPカラー + トートバッグ
 輸入盤 6LP








ザ・ビートルズ 1962年~1966年 (2023エディション) ザ・ビートルズ 1962年~1966年(2023エディション)
 国内盤 2SHM-CD
 国内盤 2SHM-CD + Tシャツ
 国内盤 2SHM-CD + トートバッグ
 輸入盤 2CD
 輸入盤・国内流通仕様 3LP
 輸入盤・国内流通仕様 3LPカラー
 輸入盤 3LP









ザ・ビートルズ 1967年~1970年 (2023エディション) ザ・ビートルズ 1967年~1970年(2023エディション)
 国内盤 2SHM-CD
 国内盤 2SHM-CD + Tシャツ
 国内盤 2SHM-CD + トートバッグ
 輸入盤 2CD
 輸入盤・国内流通仕様 3LP
 輸入盤・国内流通仕様 3LPカラー
 輸入盤 3LP









本、雑誌、ムック
12/10 『タッグ・オブ・ウォー』世界のツナ缶大事典
2024年 ポール・マッカートニー国内盤シングルレコード大全(仮)

イベント
12/9 ポール・マッカートニー ブラジル サンパウロ Allianz Parque
12/10 11:00 『タッグ・オブ・ウォー』世界のツナ缶大事典 刊行記念サイン会(トーク付き)
12/10 14:00 『タッグ・オブ・ウォー』世界のツナ缶大事典 刊行記念サイン会(トーク付き)
12/10 ポール・マッカートニー ブラジル サンパウロ Allianz Parque
12/13 ポール・マッカートニー ブラジル クリチバ Estádio Couto Pereira
12/16 ポール・マッカートニー ブラジル リオ・デ・ジャネイロ Maracanã Stadium
2024/7~9 ポール・マッカートニー写真展 1963-64 ~Eyes of the Storm~ 東京シティビュー
2024/10以降 ポール・マッカートニー写真展 1963-64 ~Eyes of the Storm~ 大阪

Web配信
12/13 ポッドキャスト McCartney:A Life in Lyrics Helter Skelter

アナログ盤
2024/2/9 ダニー・ハリスン Innerstanding 2LP

TV , ラジオ
2024年3月まで 毎週日曜 13:00~13:50 ディスカバー・ビートルズⅡ NHK-FM
2024年3月まで 毎週金曜 10:00~10:50 ディスカバー・ビートルズⅡ (再放送) NHK-FM

映画
2024年 トノバン(仮)
2024年 Twiggy (ポール・マッカートニー出演)
2024年? Man on the Run
2024年? Daytime Revolution (ジョン・レノン&オノ・ヨーコ出演)

コンサート・フォー・ジョージ

映画「コンサート・フォー・ジョージ」の公開日&上映劇場(12/10現在)

公開中
岩手 盛岡中央映画劇場 019-624-2879

12/22(金)~
静岡 CINEMAe_ra 053-489-5539 12/28(木)まで
兵庫 シネ・ピピア 0797-87-3565