それは美しい行為だった 最終バージョンは「Take 1」と名付けられたが、ジョンとジョージのギターとポールのドラムはそれまでに何度もレコーディングされていたため、それは誤解を招く名前と言えるだろう。しかし、アビー・ロード・スタジオのようにすべてが保存されていたのとは違い、トライデント・スタジオでは前回のテイクの上から3人がレコーディングを行っていたようだ。ジョンとジョージのギター、そしてポールのドラムの伴奏が完成すると、その他にも幾つものトラックがオーバーダブされ、メンバーたちはトライデント・スタジオの8トラック設備の贅沢さを楽しんだ。ポールはギターとピアノを追加し、ジョンはダブル・トラックのボーカルを重ねた。その他にもローディーを務めるマル・エヴァンス、アップル・レコードのレコーディング・アーチストのジャッキー・ロマックス、そしてバックトラックで歌も歌ったポールの従兄弟ジョン・マッカートニーが手拍子とタンバリン演奏を提供しメンバーに協力した。ポールはティーンだった頃に一瞬試したトランペット演奏の経験を活かし、おまけとしてフリューゲルホルンを少しだけ演奏した。完成したトラックは後に「The White Album」の中で最も印象深い曲の一つとなり、それは真似されることはあっても超えられることはないトラックとなった。曲のインスピレーションとなったプルーデンスは、インドで過ごした間は一度もそのトラックを耳にすることはなかった。「その曲についてはジョージから聞いたんです。彼らが帰国する時に、私についての曲を書いたと話してくれたんだけど、アルバムが発売されるまで聴くことはなかった。すごく光栄に思ったんです。本当に美しかったから」。
ビートルズがインドのリシケシュで魂の再生についての歌をビーチ・ボーイズのスタイルで歌っているテープというものが現存している。そのパフォーマンスは「Back In The U.S.S.R.」のイーシャー・デモからそこまで遠くないパフォーマンスだ。この曲が変異して、当時彼らと共にマハリシ・マヘシ・ヨギのインドのアシュラム(修行者の僧院)で超越的瞑想を研究していたザ・ビーチ・ボーイズのマイク・ラヴを称える「Happy Birthday Mike Love」という曲に変化した。リシケシュは昔からずっと、創造性を刺激してくれる場所だったようだ。ヒマラヤを囲む緑豊かな丘陵地帯を母なるガンジスが流れゆく景色の中、ここは静謐なる飛び地であり、ビートルズのようなアーティストたちが、現代社会のしがらみを断ち切り、その作品を身のうちから溢れさせることのできる場所だった。マイク・ラヴはポール・マッカートニーがある朝、アシュラムの自分の小屋から出てきてその辺りをうろついていたのを思い出してこう言う。「僕が朝食のテーブルについていたら、マッカートニーがアコースティック・ギターを抱えてやって来て、「Back In The U.S.S.R.」を弾いたんだ。僕は彼に「それを演るならロシア中の女の子のことに触れなきゃいけないよ」って言ったんだ、ウクライナも、ジョージアも入れてねって。彼はすごいクリエイティヴだから、僕から歌詞のアドバイスなんて必要なかっただろうけど、僕があのちょっとしたセクションのアイディアを出したってわけさ...あれはなかなか心躍る、ユーモラスな瞬間だったと思うよ、彼らがビーチ・ボーイズの真似をするなんてね」。ポール・マッカートニーが最終的に書き上げた歌詞には、確かにソビエト連邦の様々な地方の女の子に関する他愛のないお喋りが入っている。例えば「ああ、ウクライナの女の子たちにはすっかりKOされちゃったよ/彼女たちは西側のずっと先を行ってるね/モスクワの女の子たちは僕を歌わせ、シャウトさせる/あの「忘れじのジョージア」をね」という風に。これはまさしくビーチ・ボーイズが「California Girls」で「いやあ、イースト・コーストの女の子たちは進んでるよね/彼女たちのファッション・スタイルに僕はイチコロだ/それに南部の女の子たちの喋り方ときたら/向こうに行くといつも骨抜きにされちまう」という米国の女の子たちを歌った意趣返しとなっていた。。
「Back In The U.S.S.R.」にはまた、過去数年続いていたスタジオでの複雑な試行錯誤を経て、ビートルズの純粋なロックン・ロール・バンドへの回帰願望も投影されていた。ポール・マッカートニーは1968年11月にラジオ・ルクセンブルクでこう語っている。「かつてチャック・ベリーが「Back In The USA」って曲を演ってて、それが凄く米国人らしいと言うか、凄くチャック・ベリーらしかったんだ。そんなわけでこの曲はずっと長い長い間、米国に潜入してたスパイのことを歌ってるんだよ。で、もうすっかりアメリカナイズされちゃってるんだ。それがソ連に帰って、「そんなこと明日でいいからさ、ハニー、電話なんか外しちゃえよ」とか言ってるわけだよ」。曲のコンセプトは比較的分かりやすいが、その具現化は必ずしも容易なことではなかった。インドで書かれた「The Beatles」(White Album)の多くの曲がそうであったように、グループは英国に帰国後すぐ、ジョージ・ハリスンのイーシャーのバンガロー、キンファウスで「Back In The U.S.S.R.」のデモを録った。
だが、8月半ば、この曲をアビー・ロードで録音する頃には、既にメンバー間の緊張状態が高まっていた。リンゴは当時の状況の推移に満たされないものを感じていたようで「僕は自分が巧くプレイできてるとは思えなかった。他の3人はみんなハッピーで、僕だけがのけ者だと思ってたんだ」と後に語っている。「Back In The U.S.S.R.」のセッションの最中、彼はいよいよもう沢山だと見切りをつけ、現場から離脱。地中海に浮かぶピーター・セラーズのヨットの上で数週間過ごした後、他のメンバーたちからグループにおける彼の存在価値を認めていることを請け合ってもらい、ようやく復帰したのだった。リンゴ・スターが不在の間、ポールが打楽器のポジションを引き受け、ジョンやジョージと共に、重たく脈打つようなインパクトのあるドラムと速弾きギター、唸るベース、叩きつけるピアノという疾走感あふれるロックン・ロールのパフォーマンスに、ヴァイカウントの飛行機(英国ヴィッカーズ社の中型旅客機と思われる。同社は後にブリテイッシュ・エアウェイズ社に吸収合併された)を効果音として加えて、バンドはたった2日間で「Back In The U.S.S.R.」を仕上げた。そして、曲の書き始めにもらったインスピレーションに敬意を表して、ポールは「ビーチ・ボーイズ・スタイルのハーモニーを加えたんだよ」と発言している。かくして、ポップ・ミュージックの歴史上屈指の有名なダブル・アルバムである「The Beatles」(White Album)のロックなオープニング曲が生まれたのである。
1984年にプレイボーイ誌のインタヴューの中で、ポールはこの曲についてこんな風に語っている。「あれは同時に、分断している相手に手を差し伸べるという意味もあったんだよ。僕は今もそういう意識を持ち続けている。だってクレムリンにいる指導者たちは僕らのことをよく思ってなくても、あの国には僕らを好きな人たちが大勢いてくれるわけだからね。キッズはみんな僕らを好きでいてくれる。それは僕にとっても、未来の人類にとっても、とても大切なことなんだ」。「Back In The U.S.S.R.」は当然のことながら、鉄のカーテンの向こう(旧東側諸国)でオープンリールのテープのコピーにこっそりと耳を傾けていたファンの間ではとりわけお気に入りのナンバーとなった。2003年、ポールがようやくロシアの首都モスクワの都心部にある赤の広場でこの曲をライヴで披露した時の、会場を埋めたファンたちの顔に浮かんだ歓喜の表情は、かつて両国の関係に霜が降りるほど冷え切っていた時代が、どれほど遠くなったかを示すものだった。この夜、とりわけ大きな喝采が湧き起こったのは、「Moscow girls make me sing and shout / モスクワの女の子たちは僕を歌わせシャウトさせる」の一節だったことを付け加えておこう。
元オアシスのメンバーで、ライドのギタリストであるアンディ・ベルがビートルズのホワイト・アルバムについて語った映像が公開されている。同アルバムの50周年記念盤が昨年11月にリリースされており、アンディ・ベルはそれを記念して行われたトーク・セッションに出演し、「史上最高のギター・ソングだと思っている曲が数曲あって、Dear Prudence と Julia がそうだよ。10代だった頃に聴いて、どうなっているのか自分で確かめてみたいと思ったんだ。すぐにギターで弾いてみて、曲の中に入り込んでみたんだよ。シンプルってわけではないけど、よく考えられていて、童謡のような作りになっている。深い楽曲だと思うし、素晴らしいよ。ギタリストという視点として、このアルバムを聴いた時に思い出すのはその2曲だね。このアルバムには、ありのままのサウンドが収められているわけでね。ホワイト・アルバムは何かを簡潔にまとめたようなアルバムになっていて、アルバム自体が...当時使っていた言葉としては、ざらついたとか、ローファイとか、ゴツゴツしたとか、それからリヴァプール訛りのこととかを話していたよね。僕はそれらすべてを自分の作品にも取り入れるようにしているんだ」と語っている。