1969年1月30日、ロンドンの高級住宅地サヴィル・ロウにあるアップル社のオフィスの屋上でビートルズが行ったゲリラ・ライヴを彼らのフェアウェル・ライヴと考えてもおかしくはないだろう。演奏後に、バンドは静かに階段を降りて通りに出て、集まった人たちは仕事に戻り、ビートルズのメンバーはそれぞれの道を進んでいき、そうしてバンドの物語は終わり。ということを想像するのは難しくない。しかしそこで物語は終わらなった。その数週間後、ビートルズはスタジオに戻り、そのまま春の間もレコーディングを続け、その後、7月と8月のほぼ全期間を「Let It Be」が発売される何か月も前るリリースされたアルバム「Abbey Road」の完成に費やした。映画「ロード・オブ・ザ・リング」シリーズを手掛けた名監督ピーター・ジャクソンが新たに手掛けているドキュメンタリー映画「The Beatles: Get Back」は、1969年1月に撮影された何時間ものフィルムから、今までとは異なるバンドの物語を提示することになるだろう。「現実は神話とは全く異なるものです」と監督は最近明らかにしている。映画についてリンゴ・スターは「バンドが解散する18ヶ月前、マイケル・リンゼイ=ホッグによって撮影した映像と音声をすべて見直してみましたが、驚くべき歴史の宝庫でした。確かにドラマチックな瞬間もあったけど、このプロジェクトで長い間言われてきた僕らの不仲なものはない。たくさんの喜びがありましたし、ピーターはそれを見せてくれると思います。今回のバージョンは、私たちが本当にそうだったように、もっと平和で愛に満ちたものになると思います」とコメントしている。そしてポール・マッカートニーもリンゴの意見に同意してこう付け加えている。「明らかに僕らに一緒にいて楽しんでいました。お互いに尊敬し合い、一緒に音楽を作っているのが皆さんも見ることができます、それがひもとかれていくのがとても楽しみです」。では、なぜ「Let It Be」のアルバムが彼らの解散と結びつけられるようになったのだろうか?
ゲット・バック・セッション 1969年はビートルズの名を冠した2枚組のアルバム、通称「White Album」がチャート1位にランクインしたことで始まった。それだけでは十分ではなかいかのように、アニメーション映画「イエロー・サブマリン」のサウンドトラックが1月17日に発売されている。そんな中、彼らは元旦の翌日、次のプロジェクトの準備をしているところを撮影されるために、トゥイッケナムのスタジオに向かうために、夜明け前に起きていたのだ。トゥイッケナムには少なくともアルバムを録音するのに十分な機材はなかったが、この企画は当初、テレビ特番用にリハーサルやパフォーマンスを撮影することだった。撮影したのは当時28歳の若くてダイナミックなマイケル・リンゼイ=ホッグだ。彼は、革命的なポップTV番組「Ready Steady Go!」を担当し、ビートルズの「Paperback Writer」「Rain」「Hey Jude」「Revolution」のプロモクリップを監督した経験があった。音楽プロデューサーのグリン・ジョンズもこの場におり、彼は、テレビ特番として収録される予定だったライヴ・コンサートの音響監修のために招かれていた。グリンはリンゼイ=ホッグと共にザ・ローリング・ストーンズの「The Rolling Stones Rock and Roll Circus」のTVスペシャルで仕事をしたことがあったためだ。
トゥイッケナムからアップルへ ライヴ・パフォーマンスに適した曲が詰まったアルバム「The Beatles」(White Album)でチャート1位を獲得したにもかかわらず、ビートルズはすぐに新曲の制作に取り掛かった。1月2日、ジョン・レノンがジョージ・ハリスンとともにギターをチューニングする間に「Don’t Let Me Down」を演奏。二人がこの曲に慣れ始めた頃、リンゴ・スターが到着し、すぐにドラムで参加した。ジョージはジョンに「いい曲だね。シンプルな曲が好きなんだ」と「Don’t Let Me Down」が気に入ったと伝えている。この最初の朝のセッションにポールは遅刻してきたが、到着したと同時にポールも演奏に参加した。こうしてセッションは続き、「Don’t Let Me Down」の他にも「Two Of Us」「I’ve Got A Feeling」「All Things Must Pass」「Maxwell’s Silver Hammer」などの演奏が行われた。彼らは新曲に集中しただけでなく、リバプールやハンブルグでの名声を得る前の時代にさかのぼって、多くのカバー曲をジャムしたりもしていた。しかし、前年の「The Beatles」(White Album)のセッションの途中で、リンゴが一時バンドを脱退した時と同じ緊張が再燃した。1月10日の金曜日の昼食前に、ジョージが脱退を宣言して、スタジオを離れたしまった。残った3人のメンバーは、トゥイッケナムから場所を移すまでの数日間、ジョージ抜きで活動を続けた。そして1月20日、ロンドン中心部のサヴィル・ロウにあるアップルのビルの地下に新しく設置されたスタジオにジョージを含めた全員が集結した。しかし、ビートルズの仲間だったギリシャの電子技術者マジック・アレックスが設定したセットアップに不備があることが判明し、翌日にアビーロードにあるEMIのスタジオからポータブル機器が運び込まれ、作業が再開された。リンゴはこう振り返っている。「アップルの設備は素晴らしかった。とても快適で、自分たちの家のようでもあった。私たちが働いてないときでも、居心地を良くするために、暖炉の周りに座ってくつろぐこともできた。ただ、自分たちの演奏をプレイバックで聴くときだけは火はつかえませんでした、薪のはじける音がしたのでね」。
ビリー・プレストンの加入 スタジオの雰囲気は、卓越したオルガニスト、ビリー・プレストンが加わったことでさらに向上することになる。ビートルズはハンブルグ時代から彼のことを知っていたが、彼がこのセッションに参加したことでグループ内の士気が高まったのだ。ビリーがロンドンでレイ・チャールズと演奏していた時、ジョージが彼に会ったことがきっかけでビリーを連れてきたと説明している。「僕たちが地下室で’Get Back’をやっている時に彼がスタジオに到着したんだ。僕は受付に行って、こう言ったんだ「みんなで変なことをしているから、入ってきて一緒に演奏してくれないか」。彼は興奮してたね。他の人たちもビリーを大好きなのは知ってたけど、(彼が参加してくれたことで)まるで、新鮮な空気を吸っているようでしたよ」。1969年の1月の残りの時間はサヴィル・ロウの地下室でトゥイッケナムで出来た曲を磨きながら、新しい曲にも取り掛かった。「Get Back」はトゥイッケナムでもジャムセッションされていたが、1月23日、アップル社にきた頃にはより完全に形になっていた。他にもジョージの「For You Blue」、ポールの「Let It Be」と「The Long And Winding Road」、ジョンの「Dig A Pony」など完成間近の曲があった。このセッションで演奏された多くの曲はリンゴの「Octopus’s Garden」、ジョージの「Something」、ジョンの「I Want You (She’s So heavy)」、ポールの「Oh! Darling」などで、それらはアルバム「Abbey Road」に収録されたものや、他には各人のソロ・アルバムに収録されることになる曲も含まれている。プロジェクトを締めくくるライヴ・パフォーマンスの場所の候補として、北アフリカの古代円形劇場から孤児院まで、いくつかの会場が検討されていたが、最終的にロンドンの賑やかなリージェント・ストリートの裏手にあるアップル社のビルの屋上で、ゲリラ・ライヴを行うことが土壇場で決定された。ポールは「「あと2週間でどうやってこれを終わらせるか?」って映画の終わり方を探していた。そこで、屋上に上がってコンサートをして、それぞれが家に帰るってことになったんです」と振り返る。
1969年1月30日、ルーフトップ・コンサート ビリー・プレストンがキーボードを担当したビートルズは、1969年1月30日、木曜日の昼休みの約45分間、屋上で演奏を行った。それは、警察が近隣の企業から騒音や群衆が増えたことで発生した交通渋滞の苦情を受けてバンドに演奏をやめるように要請するまでの間の時間だった。リンゴは警察が到着した時のことを覚えている。「近所の誰かさんが警察を呼んだんだけど、警察が来た時、僕は少し離れたところで演奏してたんだけど、“うわ、すごい!”って思ったよ。できれば警官に引きずられたかったね。“ドラムから離れるんだ”って言われて羽交い絞めされるようなね。何もかも撮影されてたし、シンバルとか何かを蹴ったりしてたら、すごい良い画が撮れたはず。もちろん警察にはそんなことはされなかった。“音を小さくしてくれますか”って言われただけでしたね」。その翌日は歴史的な一日となる。バンドが「Let It Be」「The Long And Winding Road」「Two Of Us」を演奏したスタジオ・ライヴのシーンは、ビートルズの4人が一緒に撮影された最後の機会となったのだ。そして映画を制作のための1ヶ月間のセッションは終了した。しかし、それだけで物語は終わらない。アルバム「Let It Be」が日の目を見るのは1年以上も先のことだった。
発売されなかった「Get Back」と発売された「Let It Be」 ゲット・バック・セッションで録音された音源はグリン・ジョンズに手渡された。彼は何十時間にもわたって録音された音楽から、ビートルズを忠実に再現したアルバムを作ることを任されたのだ。1963年のデビュー・アルバム「Please Please Me」を模したカバーの写真撮影が行われたが、1969年の夏に「Get Back」というアルバムをリリースするという当初のアイデアは最終的に実現しなかった。グリン・ジョンズは1970年1月初旬、ほぼ完成した映画に合わせて再びアルバム「Get Back」の新しいバージョンを編集した。映画の中で演奏された新曲を映画のサウンドトラックに入れたいというバンドの希望を反映してか、ジョージの「I Me Mine」の完全版が欠けていたため、ポール、ジョージ、リンゴは1970年1月3日にスタジオに戻り、2日間滞在して「Let It Be」にオーバーダブを加えて録音した。しかしその努力も棚上げとなり、伝説的なアメリカのプロデューサー、フィル・スペクターがプロジェクトを完成させるために参加した。そして、出来上がっていた楽曲に合唱とオーケストラのオーバーダブを追加するというフィルの決定はポール・マッカートニーを怒らせた。「彼はあらゆる種類のものを追加したんだ。自分だったらやらないような、“The Long And Winding Road”に女性コーラスをいれたりね。史上最悪のレコードになったとは思わないですが、僕らのレコードに僕らの知らないような音が入っていたという事実は間違っている」。ゲット・バック・セッションが終了してから1年以上経った1970年5月8日、ついに「Let It Be」がリリースされた。裏表紙には「新しいフェーズのビートルズのアルバム…」と書かれていたが、アルバムがプレスされている間には、バンドはもう存在しなかった。このアルバムは実際には彼らの最後の音楽作品にはならなかったかもしれないが、これはビートルズがそのままにしておいた(Let It Be)サウンドだったのである。
屋上コンサートの全貌 1969年1月30日12時30分、屋上に現れたビートルズは、準備時間は僅かだったがカメラやスタッフを増員してステージを作るための入念な準備をしており、誰もが安心していた。テープの冒頭で「ロール・カメラ、テイク・ワン」という掛け声が聞こえた後に、リンゴがドラムキットの位置を迷っている様子や、ポールが飛び跳ねて下に敷いた木の強度を確かめている音が収録されている。エンジニアのグリン・ジョンズとプロデューサーのジョージ・マーティンが、ビルの地下にあるコントロール・ルームでサウンド・レベルを設定するために、ビートルズが「Get Back」を演奏している時に、録音は一旦停止した。その後、録音が再開され、テープボックスにはリハーサルと書かれた「Get Back」の最初の全演奏が収録された。屋上にはほとんど人がいなかったので、曲の終わりの静かな拍手は、クリケットの試合で聞こえる丁寧な拍手のようにポールには感じられたため「(クリケット選手の)テッド・デクスターがもう1点取ったようだね」と、上品な解説者を冗談交じりで真似てみせた。ジョン・レノンは、昼間の時間に演奏していると、バンドが有名になる前に、リヴァプールのキャヴァーン・クラブでランチタイム・セッションを何度も行っていたことを思い出したようだ。当時のビートルズは、お昼の休憩時間にキャバーンでお昼ご飯を食べている観客から演奏曲のリクエストをされることが多かったのだ。マイケル・リンゼイ=ホッグがグリン・ジョンズに録音を止めるように言う前に、「マーティンとルーサーからのリクエストを頂きました」とジョンが冗談を言ったのはそのためだ。「Get Back」の2回目の演奏の後でもジョンは「デイジー、モリス、トミーからリクエストを頂きました」と言っている。ルーフトップ・コンサートには、ビートルズがデビュー前の修業時代にドイツ・ハンブルグにあった治安の悪いクラブで演奏していた頃に出会った友人、ビリー・プレストンがバンドに加わっていた。1962年、当時10代だったキーボード奏者のビリー・プレストンは、ロックンロールのパイオニアであるリトル・リチャードとともに西ドイツの港にやってきていたのだ。1969年1月、BBCのテレビ特番に出演するためにロンドンに来ていたビリーは、すぐにアップルから演奏をするように依頼されることになった。「もともとは、バンドに挨拶をするためにちょっと寄ろうとしただけだったんだよね。バンドとジャムを始めたら、アルバムを仕上げているから泊まっていって制作を手伝ってくれと言われたんだ。そして私をバンドの一員として扱ってくれた。それはもう最高でしたよ」。「Don't Let Me Down」は、ルーフトップ・コンサートで2回演奏された。1回目の演奏ではジョンが2番の歌詞を忘れてしまい、「And all is real, she got bleed blue jay gold」と意味のない単語の羅列になっている。ドキュメンタリー「ビートルズ:Get Back」では、アップル社のコントロール・ルームで撮影した映像を確認する様子が撮影されているが、この無意味なセリフを聞いたジョンは、カメラを真っ直ぐに見つめ、眉をひそめていた。この日には「Don't Let Me Down」がもう一度演奏されたが、その時には、冒頭の歌詞を間違えている。1970年5月に発売されたアルバム「Let It Be」には、屋上で演奏された「I've Got A Feeling (Take 1)」「One After 909」「Dig A Pony」が収録されている。「Dig A Pony」を演奏するにあたり、ジョンは歌詞を覚えてなかったためカンペを見ながら演奏する必要があった。そこで、アシスタントのケビン・ハリントンが、膝をついて歌詞カードを掲げて譜面台代わりになり、ポールは演奏前に「長い曲だから楽にしてね」と言っている。ちなみにアルバム「Let It Be」に収録された「Dig A Pony」には、ルーフトップで演奏された際に最初と最後に歌われていた「All I want is you」のリフレインが編集でカットされている。
1リール目の録音を止める直前、「Dig A Pony」の最後で「コードを弾くには手が冷たすぎるよ」とジョンが言っているのが聞こえる。気温は7度、屋上には冷たい風が吹きこんでいた。この寒い中での演奏を考えると、ビートルズの演奏の器用さには驚かされるばかりだ。また、録音の音質も素晴らしい。今回配信された「Get Back (The Rooftop Performance)」のために新たなミックスを担当したジャイルズ・マーティンは、当時の音源についてこう言う。「グリン・ジョンズの素晴らしさがよくわかります。今の時代、もし屋上で演奏しようとしたら、1969年に録音されたものほど良いものにはできないと思います。屋上で行っていた演奏を聴いていることを忘れてはいけません。(残されている音源には)マイクに風切り音があまり入っていません。そしてヴォーカルとギターの音が際立っているんです」。新ミックス「Get Back (The Rooftop Performance)」の音源では、左にジョンのギター、右にジョージのギター、左にビリーのエレキピアノ、中央にドラム、ベース、ヴォーカルが配置されている。2本目のテープには、英国国歌「God Save The Queen」をビートルズが即興で演奏するジャムの一部が録音されていた。続いて「I've Got A Feeling」と「Don't Let Me Down」の2テイク目が収録。この日の最後に演奏された曲は3度目となった「Get Back」だ。警察官が屋上に到着して並んでいた時に演奏されたこのバージョンでは、1番の途中でギターアンプのスイッチが切られたが、ジョージが反抗的にスイッチを入れ直した(編註:楽曲開始40秒ごろから)。また、ポールは「Get Back」の最後に「ロレッタ、君は外に長くいすぎたね。また屋根の上で遊んでるけど、これは良くないよ、ママがこれを好きじゃないって知ってるだろ。君のママは怒ってるから、ママに逮捕されちゃうよ!」と即興で歌っている(編註:ロレッタは「Get Back」の中に登場している人物。具体的に誰のことかはポールは明らかにしていない)。街中で起きている騒音や騒動に対する苦情は、屋上にも伝わっていた。ポールはこう振り返っている。「映画の最後を飾るにはこれしかないって突然思いついたんだ。みんなが警察に捕まって、刑務所に連れて行かれるんだ」。リンゴもポールの意見に同意している。「あの時はこう思っていたよ「そうだ、俺たちは撮影中だった。ドラムから引きずり降ろしてくれ」ってね。そうなったら良かったんだけどね。でも、「あの、音を小さくしてくれますか」と言われただけったんだ」。彼らの思い付きの通りにはならなかったが、屋上に来訪した警察官が足止めされたことで、すべてがうまくまとまった。バンドが屋上を去る前、ジョンはグループの初期の頃を思い出してこう言った。「グループを代表してお礼を申し上げたいと思います。私たちがオーディションに合格していることを願っています」る
その反応 実際のところ、平日のお昼時、予告なしに行われた屋上ライヴは万人に歓迎されたわけではなく、マスコミでの報道も驚くほど少なかった。ロンドンの新聞イブニング・スタンダードは「警察がビートルズの”騒音”を止めた」という見出しで、次のように報じていた。「アップル社の隣の会社の役員、スタンレー・デイビス氏は「この血生臭い騒音を止めて欲しい。あんな行為は恥ずかしすぎるだろ」と話していた」。また、近くの銀行の従業員はこの出来事について同紙に「バルコニーや屋上にいる人たちは皆、セッションを楽しんでいるようでしたよ。中には良い音楽を認めない人もいますけどね」と語っていた。NME では「アレン・クライン、ビートルズを助ける」という記事の中で、「先週の木曜日、ロンドンのサヴィル・ロウにて、特別に書かれたいくつかの曲が通行人に聞かれた」ということがさりげなく紹介されただけだった(編註:アレン・クラインは当時のマネージャー)。1964年に撮影されたビートルズの最初の映画「ハード・デイズ・ナイト」では、ジョンが「子供たち、僕には考えがあるんだ!ここでショーをやろうじゃないか」と言って、映画のミュージカルの決まり文句を揶揄していた。5年後、彼らは最後の作品でまさにそれを行ったのである。このルーフトップ・コンサートはその後、様々な人たちに模倣されている。有名なものでは、1987年、U2がロサンゼルスのダウンタウンにある酒屋の屋根の上で「Where The Streets Have No Name」を演奏したことだろう(同時に交通も妨害して警察沙汰になった様子がビデオに残っている)。また、ザ・シンプソンズの制作者は、ホーマーによるアカペラグループ「ザ・ビー・シャープス」が「モーズ・タバーン」の屋根の上で歌っている様子を映し出し、ビートルズへ敬意を表した。この番組にカメオ出演したジョージは「やったことあるよ」と言っている。ビートルズの伝説的なルーフトップ・コンサートを全曲収録した「Get Back (The Rooftop Performance)」は、彼らが最高なバンドであることを裏付けている。最後にリンゴがニヤニヤしながら思い出していた言葉で締めよう。「ここ何年かで、最もライヴに近いものになった。曲を聴いて、エネルギーに耳を傾けてみてよ。僕はパートナーの一人にこう言ったんだよ、“悪くないバンドだね”って」。
1969年1月30日、英ロンドンの高級住宅地サヴィル・ロウにあるアップル社のオフィスの屋上でビートルズが行ったゲリラ・ライヴを、彼らのフェアウェル・ライヴと考えてもおかしくはないだろう。演奏後に、バンドは静かに階段を降りて通りに出て、集まった人たちは仕事に戻り、ビートルズのメンバーはそれぞれの道を進んでいき、そうしてバンドの物語は終わり。ということを想像するのは難しくない。しかしそこで物語は終わらなった。その数週間後、ビートルズはスタジオに戻り、そのまま春の間もレコーディングを続け、その後、7月と8月のほごぼ全期間を「Let It Be」が発売される何か月も前るリリースされたアルバム「Abbey Road」の完成に費やした。映画「ロード・オブ・ザ・リング」シリーズを手掛けた名監督ピーター・ジャクソンが新たに手掛けているドキュメンタリー映画「The Beatles: Get Back」は、1969年1月に撮影された何時間ものフィルムから、今までとは異なるバンドの物語を提示することになるだろう。「現実は神話とは全く異なるものです」と監督は最近明らかにしている。映画についてリンゴ・スターは「バンドが解散する18ヶ月前、マイケル・リンゼイ=ホッグによって撮影した映像と音声をすべて見直してみましたが、驚くべき歴史の宝庫でした。確かにドラマチックな瞬間もあったけど、このプロジェクトで長い間言われてきた僕らの不仲なものはない。たくさんの喜びがありましたし、ピーターはそれを見せてくれると思います。今回のバージョンは、私たちが本当にそうだったように、もっと平和で愛に満ちたものになると思います」とコメントしている。そして、ポール・マッカートニーもリンゴの意見に同意してこう付け加えている。「明らかに僕らに一緒にいて楽しんでいました。お互いに尊敬し合い、一緒に音楽を作っているのが皆さんも見ることができます、それがひもとかれていくのがとても楽しみです」。では、なぜ「Let It Be」のアルバムが彼らの解散と結びつけられるようになったのだろうか?
ゲット・バック・セッション 1969年はビートルズの名を冠した2枚組のアルバム「The Beatles」がチャート1位にランクインしたことで始まった。それだけでは十分ではなかいかのように、アニメーション映画「イエロー・サブマリン」のサウンドトラックが、1月17日に発売されている。そんな中、彼らは元旦の翌日、次のプロジェクトの準備をしているところを撮影されるために、トゥイッケナムのスタジオに向かうために、夜明け前に起きていたのだ。トゥイッケナムには少なくともアルバムを録音するのに十分な機材はなかったが、この企画は当初、テレビ特番用にリハーサルやパフォーマンスを撮影することだった。撮影したのは当時28歳の若くてダイナミックなマイケル・リンゼイ=ホッグだ。彼は、革命的なポップTV番組「Ready Steady Go!」を担当し、ビートルズの「Paperback Writer」「Rain」「Hey Jude」「Revolution」のプロモクリップを監督した経験があった。音楽プロデューサーのグリン・ジョンズもこの場におり、彼は、テレビ特番として収録される予定だったライヴ・コンサートの音響監修のために招かれていた。グリンはリンゼイ=ホッグと共にザ・ローリング・ストーンズの「The Rolling Stones Rock and Roll Circus」のTVスペシャルで仕事をしたことがあったためだ。
トゥイッケナムからアップルへ ライヴ・パフォーマンスに適した曲が詰まったアルバム「The Beatles」でチャート1位を獲得したにもかかわらず、ビートルズはすぐに新曲の制作に取り掛かった。1月2日、ジョン・レノンがジョージ・ハリスンとともにギターをチューニングする間に「Don't Let Me Down」を演奏。二人がこの曲に慣れ始めた頃、リンゴ・スターが到着し、すぐにドラムで参加した。ジョージはジョンに「いい曲だね。シンプルな曲が好きなんだ」と「Don't Let Me Down」が気に入ったと伝えている。この最初の朝のセッションにポールは遅刻してきたが、到着したと同時にポールも演奏に参加した。こうしてセッションは続き、「Don't Let Me Down」の他にも「Two Of Us」「I've Got A Feeling」「All Things Must Pass」「Maxwell's Silver Hammer」などの演奏が行われた。彼らは新曲に集中しただけでなく、リバプールやハンブルグでの名声を得る前の時代にさかのぼって、多くのカバー曲をジャムしたりもしていた。しかし、前年の「The Beatles」のセッションの途中で、リンゴが一時バンドを脱退した時と同じ緊張が再燃した。1月10日の金曜日の昼食前に、ジョージが脱退を宣言して、スタジオを離れたしまった。残った3人のメンバーはトゥイッケナムから場所を移すまでの数日間、ジョージ抜きで活動を続けた。そして1月20日、ロンドン中心部のサヴィル・ロウにあるアップルのビルの地下に新しく設置されたスタジオにジョージを含めた全員が集結した。しかし、ビートルズの仲間だったギリシャの電子技術者マジック・アレックスが設定したセットアップに不備があることが判明し、翌日にアビーロードにあるEMIのスタジオからポータブル機器が運び込まれ、作業が再開された。リンゴはこう振り返っている。「アップルの設備は素晴らしかった。とても快適で、自分たちの家のようでもあった。私たちが働いてないときでも、居心地を良くするために、暖炉の周りに座ってくつろぐこともできた。ただ、自分たちの演奏をプレイバックで聴くときだけは火はつかえませんでした、薪のはじける音がしたのでね」。
ビリー・プレストンの加入 スタジオの雰囲気は、卓越したオルガニスト、ビリー・プレストンが加わったことでさらに向上することになる。ビートルズはハンブルグ時代から彼のことを知っていたが、彼がこのセッションに参加したことでグループ内の士気が高まったのだ。ビリーがロンドンでレイ・チャールズと演奏していた時、ジョージが彼に会ったことがきっかけでビリーを連れてきたと説明している。「僕たちが地下室で'Get Back'をやっている時に彼がスタジオに到着したんだ。僕は受付に行って、こう言ったんだ「みんなで変なことをしているから、入ってきて一緒に演奏してくれないか」。彼は興奮してたね。他の人たちもビリーを大好きなのは知ってたけど、(彼が参加してくれたことで)まるで、新鮮な空気を吸っているようでしたよ」。1969年の1月の残りの時間はサヴィル・ロウの地下室でトゥイッケナムで出来た曲を磨きながら、新しい曲にも取り掛かった。「Get Back」はトゥイッケナムでもジャムセッションされていたが、1月23日、アップル社にきた頃にはより完全に形になっていた。他にもジョージの「For You Blue」、ポールの「Let It Be」と「The Long And Winding Road」、ジョンの「Dig A Pony」など完成間近の曲があった。このセッションで演奏された多くの曲は、リンゴの「Octopus's Garden」、ジョージの「Something」、ジョンの「I Want You (She's So heavy)」、ポールの「Oh! Darling」などで、それらはアルバム「Abbey Road」に収録されたものや、他には各人のソロ・アルバムに収録されることになる曲も含まれている。プロジェクトを締めくくるライヴ・パフォーマンスの場所の候補として、北アフリカの古代円形劇場から孤児院まで、いくつかの会場が検討されていたが、最終的にロンドンの賑やかなリージェント・ストリートの裏手にあるアップル社のビルの屋上で、ゲリラ・ライヴを行うことが土壇場で決定された。ポールはこう振り返る。「「あと2週間でどうやってこれを終わらせるか?」って映画の終わり方を探していた。そこで、屋上に上がってコンサートをして、それぞれが家に帰るってことになったんです」。
1969年1月30日、ルーフトップ・コンサート ビリー・プレストンがキーボードを担当したビートルズは、1969年1月30日、木曜日の昼休みの約45分間、屋上で演奏を行った。それは、警察が近隣の企業から騒音や群衆が増えたことで発生した交通渋滞の苦情を受けてバンドに演奏をやめるように要請するまでの間の時間だった。リンゴは警察が到着した時のことを覚えている。「近所の誰かさんが警察を呼んだんだけど、警察が来た時、僕は少し離れたところで演奏してたんだけど、“うわ、すごい!”って思ったよ。できれば警官に引きずられたかったね。“ドラムから離れるんだ”って言われて羽交い絞めされるようなね。何もかも撮影されてたし、シンバルとか何かを蹴ったりしてたら、すごい良い画が撮れたはず。もちろん警察にはそんなことはされなかった。“音を小さくしてくれますか”って言われただけでしたね」。その翌日は歴史的な一日となる。バンドが「Let It Be」「The Long And Winding Road」「Two Of Us」を演奏したスタジオ・ライヴのシーンは、ビートルズの4人が一緒に撮影された最後の機会となったのだ。そして映画を制作のための1ヶ月間のセッションは終了した。しかし、それだけで物語は終わらない。アルバム「Let It Be」が日の目を見るのは1年以上も先のことだった。
発売されなかった「Get Back」と発売された「Let It Be」 ゲット・バック・セッションで録音された音源はグリン・ジョンズに手渡された。彼は何十時間にもわたって録音された音楽から、ビートルズを忠実に再現したアルバムを作ることを任されたのだ。1963年のデビュー・アルバム「Please Please Me」を模したカバーの写真撮影が行われたが、1969年の夏に「Get Back」というアルバムをリリースするという当初のアイデアは最終的に実現しなかった。グリン・ジョンズは1970年1月初旬、ほぼ完成した映画に合わせて再びアルバム「Get Back」の新しいバージョンを編集した。映画の中で演奏された新曲を映画のサウンドトラックに入れたいというバンドの希望を反映してか、ジョージの「I Me Mine」の完全版が欠けていたため、ポール、ジョージ、リンゴは1970年1月3日にスタジオに戻り、2日間滞在して「Let It Be」にオーバーダブを加えて録音した。しかし、その努力も棚上げとなり、伝説的なアメリカのプロデューサー、フィル・スペクターがプロジェクトを完成させるために参加した。そして、出来上がっていた楽曲に合唱とオーケストラのオーバーダブを追加するというフィルの決定はポール・マッカートニーを怒らせた。「彼はあらゆる種類のものを追加したんだ。自分だったらやらないような、“The Long And Winding Road”に女性コーラスをいれたりね。史上最悪のレコードになったとは思わないですが、僕らのレコードに僕らの知らないような音が入っていたという事実は間違っている」。ゲット・バック・セッションが終了してから1年以上経った1970年5月8日、ついに「Let It Be」がリリースされた。裏表紙には「新しいフェーズのビートルズのアルバム…」と書かれていたが、アルバムがプレスされている間には、バンドはもう存在しなかった。このアルバムは実際には彼らの最後の音楽作品にはならなかったかもしれないが、これはビートルズがそのままにしておいた(Let It Be)サウンドだったのである。
ところで、来年(2022年)はビートルズ結成60年という記念の年になる。ビートルズには毎年なんらかの記念があるが、2022年は中でも特別な年と言っていいだろう。1980年代にこんなことがあった。英国でのオリジナル・シングル「ラヴ・ミー・ドゥ」から「レット・イット・ビー」までの22枚を発売日の20年後にあたる1982年10月5日から1990年3月6日にかけて、“IT WAS 20 YEARS AGO TODAY”と題した息の長いキャンペーンとして順に発売していったのだ。2022年から30年にかけて“IT WAS 60 YEARS AGO TODAY”と題して、同じようなことを今回もやってくれないだろうか。これは一つの願いに留めるとして、より実現性が高いのは「サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド」「ザ・ビートルズ」「アビイ・ロード」「レット・イット・ビー」と続いてきたアーカイヴ・シリーズの続編である。これも年代に即して ― その場合は2023年からになってしまうが「プリーズ・プリーズ・ミー」から「リボルバー」までの7作品を2023年から26年にかけて順に発売していって欲しい。「ラバー・ソウル」と「リボルバー」が先に登場しそうな気配もあるが、いずれにしても、2022年は「レット・イット・ビー」で終着点に辿り着いたビートルズの新たな門出がまた始まる年になりそうだ。