つれづれなるままにバンド・オン・ザ・ラン
Tribute Vlog for Band on the Run 50th Anniversary Edition
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wingsfan

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ポール・マッカートニー&ウイングス
のトリビュート LIVE フェスティバル
WINGSFAN をプロデュースしてい
ます。このブログは私が日常生活
の中で興味を持ったことやウイン
グスや WINGSFAN などに関する
情報などを毎日掲載しています。 

wingsfan@wingsfan.net


L⇔Rデビュー30周年 ポールのライヴを思い出に田舎に帰ろうと話していた
これまで多くのミュージシャンを取材してきた。編集長になって20年。ずっと取材を続けてきた人もいる。しかし会わなくなってしまう人が遥かに多い。昔、毎月のように会って取材して、ライヴに行って、プライベートを深く知るようになった人ですら、時と共に疎遠になっていく。50歳を過ぎたあたりから、無性にその人たちに逢いたくなった。売れた売れない関係なく、編集者としての自分に何らかの影響を与えた人と、今、話をしたかった。今回はL⇔Rの黒沢秀樹に会いに行った。兄でありL⇔Rのメインコンポーザーであった黒沢健一は、脳腫瘍で5年前に亡くなっている。L⇔Rが30周年のアニバーサリーを迎える中、今彼が思うことを聞きたかった。

L⇔R 黒沢秀樹

アーティストとして考えると、兄貴には逆さになっても勝てないから
会うのはいつ以来だろう。三軒茶屋の小さなバーで偶然会ったのが最後だから、確実に10年は過ぎていた。でもあまり変わらない風貌と話し方。あっという間に時間という距離は短くなっていった。黒沢秀樹。L⇔Rのギタリスト。バンドの活動休止後は、ソロとしてプロデューサーとして、サポートとして、各方面で活躍。今ももちろん音楽活動を続けているが、私生活では女優の佐藤みゆきと結婚。今は3歳の男の子の子育てに忙しい。彼がウェブマガジン「ホテル暴風雨」で連載中のブログ「LITTLE CHILD だいじょうぶ、父さんも生まれたて」にそのあたりは詳しい。佐藤が連続テレビ小説「おかえりモネ」やグローブ座での舞台「葵上・弱法師」に出演中ということもあって多忙な今、彼はある意味、ジョン・レノンのハウスハズバンド状態。時間がないことをボヤきながらも、その成長を見守る今は充実しているように見える。「もう今ひとりじゃないですからね。しかし子供を育てることがこんなに大変とは(笑)。ぶっちゃけ、今まで自分のために使えてた時間がほとんど奪われてしまう。だから今、仕事……僕の場合は音楽ですけど、そっちに費やす時間が物理的になくて(笑)。どうやって音楽に関わっていくか、一からベースを作り直しているところですね。ありがたいことに、少なからず待っててくれるお客さんがいることが、今はいちばん支えになってます」。L⇔Rは11月25日でデビュー30周年のアニバーサリー・イヤーを迎える。彼らとは当時所属していた雑誌で、デビュー時からほぼ毎月取材をしていた。あの頃の話は尽きない。特に出会った頃の兄、フロントマン黒沢健一の印象は強烈だった。初めての取材の際、六本木のスタジオで「金光さんは他にどんなバンド担当してるんですか?」と聞いてきた彼。僕が何も考えず「今はLUNA SEAとZi:KILL。あとはBAKUですね」と話すと、彼はあからさまに不安そうな表情を浮かべ(笑)、そして次の月の取材後、僕をレコード会社の給湯室に手招きすると、「これ、どれも素晴らしい作品だから聴いてください」と紙袋を渡してきた。その中には、ラズベリーズ、フォー・フレッシュメン、デイヴ・クラーク・ファイブ、ディオン、フランキー・ヴァリのレコードと、なぜこのアルバムが素晴らしいのかを書き綴ったノート。またひと月後に会うと「どうだった……でしょ! いいですよね! 今日はね。これ持ってきました」とまた紙袋(笑)。それ以来、毎月の取材が終わると、しばらく黒沢健一音楽セミナーが開講された。あれは、僕らのことをちゃんと理解してほしい、という過剰な気持ちの表れだったんだろう……と思うが、今考えてもかなりイカれている(笑) その黒沢健一は、今から5年前、2016年12月に脳腫瘍のためこの世を去った。L⇔Rが完全な形で復活することは、もう、ない。「あの頃はキツかったですね。兄貴の病気が発覚して、どんどん状況が悪くなっていって。でもそのことは、ギリギリまで公表しないことになっていて。それはマネジメントとして正しい判断なんだと思います。でも俺は、リリースやライヴがあるじゃないですか。同じ世界で仕事をしてますから、どうしたってその話になるんですよ。「最近お兄ちゃん何してるの?」って。それがほんとしんどくて。ぶっちゃけ一時期、自分が表に出るような仕事はあまりやらなくなってましたね。〈兄貴がそういう状況だったのに、弟は何やってたんだ〉って思われると、本当嫌だったから」。健一の病名が公になったのが10月。すでにその1年前には脳腫瘍と診断されており、発表から2ヵ月後、死去。享年48歳。若すぎる死だった。そして黒沢秀樹にとっては、尊敬するミュージシャンであると同時に兄。この事実への葛藤があることは、L⇔Rを取材していた頃から、なんとなく気づいていた。「アーティストとして考えると、兄貴には逆さになっても勝てないから。ほんとに天才なんです。側で見ててもそう思わされる、ものすごい人でしたよ。おんなじ兄弟だけど、生まれ持っての才能でこんなに差があるんだって、実感させられることだらけなんです。だって16歳になった頃だったかな。兄貴がギター持ち始めて、新しいコードを1つ覚えたんですよ。それを俺の目の前で弾いてたんだけど、みるみるうちにそれが曲になっていったんです。あれは魔法でした(笑)。今でも憶えてる。どうしてこんなこと考えつくんだろう、って」。そう、天才と呼んでしかるべき人だった。でも天才は、それをなかなか共有できない。撮影スタジオで準備をしていると、衣装に着替えた健一が僕のほうに近づいてきて「なんかね、イルカが空を飛んで鳴いてるイメージなんですけど、わかります?」と言い出し、カメラマンと目を見合わせることもあった。「それ、レコーディングでも同じですよ。エンジニアにそういうイメージで伝えるから、プロデューサーの岡井大二さんに「秀樹、お前翻訳しろ!」ってよく言われてました(笑)。確かに俺は言ってることがわかるんですよ。だからエンジニアに「この勢いあるところをちょっと削って、後ろを2段ぐらい上げてみてください」ってお願いしてみたんです。そこを修正して改めて聴くと「そうそう、これが真実の音だよ」ってご満悦。なんだよ、真実の音って(笑)。そんなことはよくありましたね」。ミュージシャンとして天才的な兄。もともとレコーディングエンジニア志望で、バランス感覚を持っていた弟。その関係がL⇔Rの原型になっていく。上京した健一は、バンド活動しながら、いわゆる職業作曲家として生計を立てていくが、バンドはなかなかままならない状態。そんな中、秀樹が高校生の頃、東京に呼び出された。「その頃の兄貴は、俺にとって憧れの存在ですよ。そんな兄貴からいきなり「東京に来い」って呼び出されて。行ったら信濃町にあったソニーの大きなスタジオに連れて行かれて「ここのギター弾け」って言われて。驚きでしたよ。で、僕は兄貴とバンドを組むんですけど、まあうまくいかなくて。デモをいろいろ作っても「古い」「今どきこんなの流行らない」「マニアックすぎる」と言われて散々。バンドもメンバーが入っては辞めて、デビューもできないまま兄弟2人が残っちゃった(笑)。なのに兄貴の作曲の仕事は忙しくて、曲の締切に追われてて、やりたくもない音楽にめちゃくちゃ煮詰まってる。その頃20歳前後でしたけど、もう人生終わったな、ってふたりで絶望してたんですよ。その時大二さんから連絡が来たんですよね」。ファンにはよく知られた話だ。最後にポール・マッカートニーの東京ドームを記念に観て、田舎に兄弟で帰ろう、と思っていた矢先の連絡。「一緒にバンドやろうぜ」と強く誘いをかけていた木下裕晴がベースに加わり、レコーディングに入る。デビューのきっかけをそこでつかんだわけだが、当時の彼らがやりたいことを全部乗せしたようなサウンドは、とても20代前半のミュージシャンがやっているとは思えない、とんでもないサウンドメイクだった。「デビュー直前に、もう田舎に帰るか……と思いながら、やけっぱちになって作ったデモは、デビュー・アルバムの「L」やセカンドの「Lefty in the Right」に入ってますけど、あれは僕らにとって、怒りや憎しみをこめたものです(笑)。さっきも話したように、マニアックだ、こんなの流行るわけがないってずっと言われ続けて来たから、じゃあ最後にそれを徹底的にやったるわ!って気持ちですよ。あの頃はまだ珍しかったループ、減速再生、徹底したウォール・オブ・サウンド。やりたかったこと全部乗せだから、セカンドぐらいまでの熱量はほんと普通じゃなかった。何年か前、改めて聴く機会があったんですけど、やっぱり当時の僕たち、頭おかしいですよ(笑)。今はプロトゥールスがあるから、やろうと思えばできちゃうでしょうけど、当時はPCなんてないから、1曲の中に5曲分ぐらいの作業量と演奏データが入ってる。だから当時のシーンでは、かなり異質だったことは間違いない(笑)。よくミスチルやスピッツと並べて語られてたけど、まったく別物ですよ。あんな穏やかなもんじゃなかった。気が触れてます。だから当時、いっぱい取材受けてましたけど、アイドル誌の取材とかで、好きな食べ物とか聞かれて(笑) こんな取材受けていいのかなって、みんな思ってました。かなりイカれたバンドだって自覚してたので (笑)」。

L⇔R 黒沢秀樹

ナンバーワンヒットを獲得した後、その先の価値観を指し示す人が、僕たちの周りには誰もいなかったんですよね
しかしその後、音楽ファンの間で人気は定着し、ホールでのコンサートもソールドアウトが続く。さらに、L⇔Rはポニーキャニオンに移籍。嶺川貴子は脱退し、3人体制となる。このタイミングの、大人たちが見えないところでいろいろ駆け引きしている様子は、取材していてもなんとなく感じられた。キャニオンに移籍というニュースは、メンバーもちゃんと結果を出したいんだな、と思っていた。「あくまで僕の視点からですけど、あれは、僕らの意思がどうこうではなく、ビジネスとしての大きな動きに飲み込まれた感じでした。最初、マネージャーからここに移籍が決まった、って聞かされたのは、キャニオンじゃなかったし。貴子の件も含め、プロデュースやマネジメントの行政が絡んで、二転三転してましたね。条件次第では、あのまま4人だったかもしれないし。ただ、僕たちのアイデンティティである音楽の部分だけは譲らない、と強く主張しました。それだけは守らなきゃと思って。でもその他は、あまりにも大きな力で動いてるから、当時25歳くらいの僕たちには、何がなんだかわからないのが正直なところで。でも、キャニオンのおかげでいいタイアップがつくようになって、ナンバーワン・ヒットが生まれたし、今でもそれでL⇔Rというバンド名を憶えられているんだから、その選択は間違ってなかったと思います。ただ、兄貴も僕も、メジャーの全国流通でデビューして、アルバムを作れた時点で、ひとつのゴールを迎えてた、そんな気がしますね。ほら見たか!みたいな(笑)。マニアックだとか売れないとか、そういうこと言ってた世間に復讐した、そんな感覚でした」。1995年。「KNOCKIN' ON YOUR DOOR」がチャート1位を獲得し、翌年には日本武道館公演を成功させ、L⇔Rは日本を代表するロックバンドの地位に上り詰めた。5年前は、ポールのライヴを思い出に田舎に帰ろう、と話していたメンバーが、自分たちの音楽を世間に認めさせた、鮮やかな成功&復讐劇。きっと彼らは、日本の音楽の中でもエバーグリーンな存在として、長く活動を続けていくのだろう、そう思っていた。しかし翌年、リリースされると謳われていたアルバムが延期に延期を重ね、最終的に97年4月にリリースされた「Doubt」はすべてがおかしかった。これまでLとRの組み合わせで統一されていたアルバムタイトルの法則は完全無視され、ジャケットは健一がファックス用紙の裏に描いた謎のイラスト。楽曲のタイプは幅広く、これまで以上にバンドっぽさが強く出た。そしてアルバムに関するインタビューは基本受けず、一部の取材を秀樹と木下が受けるという変則的なプロモーションで、健一が表に出てくることはなかった。そしてこれが、L⇔Rのオリジナル・アルバムとしてはラストになってしまった。全国ツアーを終えたあと、活動休止を発表。2年前にチャート一位を獲得したバンドに待つ未来がこれだとは、誰も予想していなかった結末だった。「新作をレコーディングすることになって、何曲かデモも準備されてたんですよ……いや、何曲か録ったあとだったかな。兄貴が途中で「もう無理だ……帰る」って言い出して、スタジオから逃げ出しちゃったんですよ。もう半ば進んじゃってるし、リリースも決まってるんだけど、顔見たらわかるんですよ。あ、これはマズい、ダメだ。完全に落ちてる、って。だから大二さんのところに行って、ほんとに申し訳ないんですが、1回レコーディング中断させてください、ってお願いして。兄貴には、やる気になったら戻って来ればいいから、ちょっと休んでなよ、と伝えて。それで少し延期したんだけど、もうさすがにこれ以上ズラせない、って話になって。最終的に、木下と僕が中心になってレコーディングを進めたんです。「Doubt」は賛否両論あるけど、結果的に、とてもバンドらしいアルバムになったと思うんですよ。木下のソングライティングやプレイアビリティのセンスが全面に出た曲も多いし、サウンドプロデュースは僕がまとめた曲もかなりある。そういう意味では、3人のバランスが拮抗した、バンドらしいアルバムになったんです」。「でも、そのことが休止に繋がった気もするんですよね。これは僕の私見ですけど……兄貴は、自分がドロップアウトして、一部関わらなかったこのアルバムが、どうにか進行して形になったこと、そしてそれがある一定の評価を得て、完成度が高いという事実。これを目の前にした時に、整合性が取れなくなったと思うんです。本人に聞いてみないことにはわからないですけど、自分が関わらなくてもアルバムが完成したという事実に、L⇔Rという存在に対する向き合い方がわからなくなったんじゃないかと思ってます。でもあの時は、レコード会社のスケジュールやリリースの展開も含めて、あれ以上延ばせなかった……というか、誰もケツが拭けなかったんですよ」。これは勝手な推測だが、思いもよらない状況を前に、レコーディングはお蔵入りにして後日やり直すとか、健一の完全な回復を待ってから話し合うとか、メンバーの状況を見た長期的な視野による判断を、事務所もメーカーもできなかったのだろう。それに当時はまだ、一部を除いて、メーカーのディレクターがすべてを取り仕切ることが多かった。その立場からすれば、なんとかしてアルバムを形にし、発売日に間に合わせること、が何よりも正義だった。「それにあの頃、この先どうやっていけばいいのか、10年後にどうなっていられるのか、そうやって未来を指し示す人がいなかったんですよ。今わかることですけど、マネージメントやプロデュースの力は、当時の僕たちにもっと必要だった気がします。もちろん大二さんがいなかったらL⇔Rはなかったし、あそこまでのものは作れてなかったですけど、いろんな選択肢がある中で、その先にどんな道筋をつけていくのか、誰もそういうことができなかった。当時の僕らは、音楽的にいいものを作ろうという純粋さだけでアルバム作って、実際いいものを作ったと思うけど、その先に見えるゴールが、言い方は悪いですけど〈売れること〉でしかなかった気がするんです。兄貴じゃないけどそれは疲れますよ。売れることをゴールにしていくと、その先は、金持ちになるしかないじゃないですか。大二さんは四人囃子という伝説のバンドにいて、世界的に知られてて。でも「伝説って言われたって、誰も知らなくちゃ意味ねえぞ。お前らは絶対売れなきゃダメだからな!」ってつねづね言ってたんです。それで僕らをメインストリームに乗せてくれたし、その結果、ナンバーワン・ヒットも獲得した。これは本当にすごいことだと思います。でもその先の価値観を指し示す経験値を持った人が、僕たちの周りには誰もいなかったんですよね」。そしてL⇔Rは長い活動休止期間に入った。メンバーそれぞれがソロ・アルバムをリリースし、それぞれの場所を音楽シーンに築いていく。健一はソロアーティスト、秀樹はプロデュース業、木下はサポート・ミュージシャンとして。その後、健一と木下がバンドを結成。そして健一のライヴツアーに秀樹が参加し、2013年には健一のソロ・アルバムに秀樹、木下、嶺川が参加するなど、関係が疎遠になることは最後までなかった。しかし活動休止から20年の間、L⇔Rが再結成されることは最後までなかった。これは本当に不思議だった。「何度も話はしたんです。というのは、俺はすごい言われるわけですよ。誰に会っても「L⇔Rやらないの?」「もうやったほうがいいよ」って。何なら俺のせいだと思われてたり(笑)。ほんとに言われ続けるから、いい加減嫌になって、兄貴に「どうする? 辞めるなら辞めるで解散でもいいじゃん。やりたくないんだったら、それはもう言ったほうがいいんじゃない? そのへんどう考えてるの?」って問い詰めても「うーん……でも今じゃないな」って答えしか返ってこなかったんですね。もしかしたら、L⇔Rという名義でやるのがちょっと怖かったのかもしれないです。昔より良くないものは見せたくない、見たくない、そんな気持ちが強い人だったから。ただ、本当に最後の最後なんですけど……兄貴は脳腫瘍の前にも1回、大きな病を患ってたんですよ。その見舞いとか、あと兄弟だから、この歳になると実家でいろいろあるじゃないですか。だから音楽とはまったく関係ないことを、顔つき合わせて話し合わなきゃいけないタイミングがあったんですよ。そしたらやっぱりその話になって(笑)。「L⇔Rそろそろどうなの?もういいんじゃない?」って、もう何度も言ってるから、半ばいつもと同じような答えが返ってくるだろうなと思いつつ、口にしたんですよ。そしたら「そうだな。秀樹ともきーちゃんとも一緒にやりたいから、ちょっと前向きに考えるよ」って言い出して。俺、びっくりしちゃって。「じゃあ1曲でも2曲でもかまわないから、何か一緒に曲作り始めようか?」って、めちゃくちゃ前のめりに話しちゃって(笑)。だから25周年あたりで可能性はなくはなかったんです。でもその直後に脳腫瘍が発覚して」。神様は残酷だ。ようやく歯車が動き出そうとしていたのに、それを止めてしまう。しかし秀樹は、メンバーであると同時に弟でもある。この世界に引き込んだ張本人でもある健一がいなくなって5年。どんな気持ちなのだろう。「正直、今でも信じられないですよ。もう時間経ってますけど……心にぽっかり穴が空いた感じってこういうことを言うのかなって。だから現実感があんまりないんですよね。この数年、ずっとそうなんですよ。子供が産まれたことも含めて、すべて夢みたいな感じ。この夢、いつ終わるのかなって。でもね……去年、友人のなるちゃん(成瀬英樹:シンガーソングライター/プロデューサー)に「L⇔R唄えるの、もう秀樹くんしかいないんだから、絶対唄いなよ」って言われたんですよ。でも、兄貴が唄ってた曲を俺が唄うの、当時のファンは嫌だろうな、俺がファンでもそう思うだろうな……とかいろいろ考えちゃって。ずっとモヤモヤしてたんです。でも、どんだけ時間が経っても……このぽっかり空いた穴が埋まらないんですよね。埋めようとすればするほどダメで。どうしても埋まらないから、もう埋めようとしないことにしたんです(笑)。だから今年の始め、なるちゃんとふたりで〈Walls & Bridges〉というライヴの企画を立ち上げて、その中で〈HIDEKI sings L⇔R〉というライヴをやったんですよ」。「タイトル通り、僕がL⇔Rを唄う、という企画なんですけど、YouTubeチャンネルも開設して。で、ライヴをやってみたら、お客さんもみんないい歳だから(笑)その人たちもそこそこ人生でいろんなことが起きてるわけですよ。そんな人たちを前にして、ミュージシャンらしく「みんなで一緒に乗り越えていこう!」なんてこと言って、背中を押してあげれたらいいんだけど、俺が無理だった(笑)。だって、黒沢健一はただのバンドメンバーじゃないんだよ。実の兄貴なんだよ。子供の頃からずっと一緒にいたんだよ。で、俺に音楽を教えてくれて、ここまで導いてくれた人でもある。その人のことを乗り越えていけるはずがないよ。でも僕を見たら、少なからずみんな兄貴のことを、L⇔Rのあの曲のことを思い出す。もうこれはしょうがないよ。そのことに異議申し立てのしようもない。これで音楽辞めますって言うなら別だけど、やってる以上はもう仕方がない。俺はこのモヤモヤした気持ちをさ、ライヴを観に来るお客さんと一緒に、一生、ずっとモヤモヤし続けるの(笑)。乗り越えろって言われたって無理なんだから、モヤモヤし続けながら唄う。そう決めたんです」。なんとも黒沢秀樹らしい決意表明だ。ちょっと後ろ向きで、斜に構えたようで、でもみんなのことを考えて、引きずりつつ、前を見てる。

L⇔R 黒沢秀樹

いい曲があった真実を残すことはできる。それができるのは、俺しかいないんだよ
「こういう自分を見るとさ、きーちゃんのことを思い出すんだよね。僕は、L⇔Rを作ったのは彼だと思ってるから。どうしようもなくなって、2人で実家帰ろうと思ってた冴えない兄弟に「お前らのバンドはカッコいいから、何が何でも俺と一緒にやろう」って声をかけてきてさ。彼がいなかったらL⇔Rやってないよ。間違いなく。きーちゃんはそのL⇔Rを、自分の歴史の一部として、それをキャリアのひとつとして乗り越えて、ベースの腕1本で生きていく職人になってるじゃん。すごくカッコいいと思うよ。でもやっぱり俺はさ、ちょっと事情が違うんだよね(笑)」。それは、兄と弟、という特別な関係。どうやっても拭えない、血のようなもの。だからこそ彼は、乗り越えるのではなく、引き受けることを選んだのだろう。「休止してる期間はさ、まだ3人とも若さが残ってて、いろんなことを試行錯誤やってたから、自分のエゴみたいなものがしっかりあったと思うんだよね。兄貴も、きーちゃんも、俺も。その頃のL⇔Rって、自分のためにしかなかったと思う。でも今思い返してみるとさ、ファンの人たちのために何かやれたらよかったなって、本当に後悔してんの。それが仮に解散ライヴだったとしても、何にしても、もう1回きちんと自分たちなりのやり方で、L⇔Rという存在へのけじめというか、答えを見せるべきだったんじゃないかなって。それも含めて心に穴が開いたままなんだよ」。でもその穴を、見ないふりをしないで抱えていようとする。それはどうしてなんだろう。「まあ、好きだからでしょうね。自分が作ったもの、自分が携わったものに関して、どんなに辛いことや嫌なことがあったとしても、これはいいってやっぱり思えるし、あの時、そこまでのことをやり切ったから。あれがほんとに自分の不本意なもので「お願いだからあれはもう聴かないで!」っていうものだったら、たぶん、今「あれは黒歴史だから!」って言ってると思うけど、全然そうじゃないし。あの頃、4人で見た光景は、どれも素晴らしい思い出なんですよ」。その、どこかに置いてきた気持ちを形にするため、彼は動いた。12月4日、和光大学ポプリホール鶴川で行われる黒沢秀樹ワンマンライヴがそのひとつ。そしてSecure Base(セキュアベース)という会員制ウェブサイトも立ち上げた。「今年L⇔Rは30周年じゃないですか。もう兄貴はいなくなっちゃったから、バンドはできない。でも僕はまだ生きてるわけで、細々とだけど音楽は続けていくつもりなんですよ。心に開いた穴とモヤモヤとは一生付き合っていくつもりだけど、いろいろ経験を積み重ねていかないと、決して小さくはならないじゃないですか。どれだけその機会を増やしていけるかじゃないかなと思って。だからSecure Baseを始めたんです」。Secure Baseとは、心の安全基地、という意味だ。育児用語にもなっているが、子供が小さい頃、安心して戻れる場所になれる人がいれば、いつでもそこに戻ってこれるから、離れたり、また戻ったりしながら、子供はちょっとずつ成長していける、というもの。「今、自分にも世の中の人にとっても必要なのは、そういう心の安全基地なんじゃないかなと思って。ここだったら安心して戻ってこられる場所があったほうがいいなと思ったんです。今は直接会えないから、ネット上に、僕のファンの人たちだけが戻ってこれる安全基地を作れば、外で何かが炎上したり、嫌なものを目にしてちょっと傷ついても、ここは黒沢秀樹を通じて、いつもの人がいつもの感じでいるんだよなって、安心できる場所になるんじゃないか、と思って」。抱えているだけじゃなく、そういうものを抱えている人たちが、同じような人がいることをわかる場所。それをつくることが大切だと、今の彼はわかっているのだろう。「みんないい歳になったけど、いろんな事情の方が世の中にはいるじゃないですか。ライヴ行きたくても来れない、家を出たくても出れない。物理的に海外に住んでて日本に来れない人もいる。そういう人たちのことを考えると、普通に東京に住んでて、毎日呑みに行って、ライヴ行こうと思ったらすぐ行けてたことが、どんだけ幸せなことだったのかって、よくわかるじゃない? そうじゃない人たち、いっぱいいるんだよなと思ってさ。そういう人たちにこそ、音楽って大事だったりするわけですよ。ロックンロールって、激しくて音がデカけりゃいいわけじゃなくてさ。あれは弱者のための音楽ですよ。逆境の中にいたり、すごく辛い思いしてたり、そういう人たちの歌が、時々世の中をひっくり返すわけじゃん」。「ビートルズだってビーチボーイズだってそうじゃない? ブライアン・ウィルソンなんて、親父に虐待受けて、ボコボコに殴られて、挙句の果てには薬物中毒になって。それでもあんな素晴らしい音楽を作ってる。そこに僕たちは惹かれて、ここにいるわけで。やっぱりサウンドの向こう側から聴こえてくるブルースみたいな生き様がロックなんですよ。ロックはイケてるヤツらのための音楽じゃないんです。だから今の俺はそれを鳴らせると思ってるし。30年を節目にして、ひとりでも多くの人に聴いてほしくなんかない(笑)。それを目的にはしたくないの。聴いてもらえる人に、本当に必要としてる人に、ちゃんと届けたいんですよね」。だからホールでのワンマンライヴも決行する。コロナ禍で、どのライヴも動員数は削られ、感染対策で予算が嵩み、なかなか利益は出せない。でもどうしてもやりたかった。それは30周年を迎えるL⇔Rに、そして兄に対する、自分なりのけじめでもあるのだろう。「今回のホールライヴ、やっぱり半分しか入れられないんですよ。これで普通にやったところで大赤字なんです(笑)。それなのに何のためにやるの?って話ですよ。結局さ、俺ももう50も過ぎて、兄弟のどっち?って言われてる影の薄いほうで、しかも兄貴も死んじゃってさ。家に帰ればちっちゃい子供もいる。どうしたらいいんだよ、って毎日悩んでますよ(笑)。でもその状況の中でも、Secure Baseの中に、本当に支えてくれてる熱いファンの人たちがいて。このコロナの中でやるのどうかしてるって思われても、クラウドファンディングやってみたら、約200パーセント集まって達成して。とりあえず開催できるところまではこぎつけた。2年前まではそんなこと考えもしなかったけどね。このコロナの状況の中でさ。でも、この人にできるんだったら私にもできるんじゃないかって、みんなに思ってほしいんですよ。ミュージシャンもそうだけど、普通に生きてる人もしんどいじゃん。へこたれるじゃん。諦めたくなるじゃん。でもこんな俺が、やればなんとかなるもんだよっていう証明をしたいんだよ。そしたらみんな少しは希望が持てるんじゃないかと思って。だからL⇔Rの30周年っていう節目があるんだったら、それを背負うのは自分だな、しょうがないなって思ったんですよ。だって今でも唄ってるし、俺はあの人の弟なんだから。俺にロックを教えてくれたあの人の弟なんだから。誰に何言われたって唄うしかないよ。それを求めてる人が、聴きたいって人がいるならさ。もうL⇔Rはできないけど、こういうグループがいたんだよ、こんないい曲があったんだよって、残すことはできると思うの。それができるのは、どこを見渡したって俺しかいないんだよ」。力強い言葉だった。そしてそれは兄に対するいろんな気持ちだけじゃなくて、家庭を持ち、子供を育てている今だからこそ、いろんな気持ちを背負うことができている。「世の中ほんとに、いろんな事情を抱えてるんだよね。言わないだけで。で、その悩みとかしんどいとかの多くは、若い時と違ってさ、自分ひとりじゃどうにもならないことばっかりなわけよ。例えば親のことだったり、家族のことだったりさ。いや、それ、あんたのせいじゃないんだけど、でもしょうがないよねって一緒に笑ってあげたい。だからより一層、たまに音楽聴いて〈ああ、いいな〉と思ったりしてほしいんだよね(笑)」。そんな彼が、いまいちばん好きな音楽を最後に聞いてみた。「最近は……ジュリアン・レノンをよく聴いてる。セカンドアルバムの〈Everything Changes〉なんだけど、すごくいいよ。すべて似過ぎてない。やっぱり彼も、ジョンの息子、ってところで心に開いた穴を抱えてる。よくわかる。音楽にそういうのは出るんだと思うな。あと、俺がやるから説得力あるでしょ?って思ってるフシがたぶんある。その気持ち、今はよくわかるんだ」。


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ナウ・アンド・ゼン - ビートルズ ナウ・アンド・ゼン (Now and Then)
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ザ・ビートルズ 1962年~1966年、ザ・ビートルズ 1967年~1970年 (2023エディション) ザ・ビートルズ 1962年~1966年、ザ・ビートルズ 1967年~1970年(2023エディション)
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本、雑誌、ムック
12/10 『タッグ・オブ・ウォー』世界のツナ缶大事典
2024年 ポール・マッカートニー国内盤シングルレコード大全(仮)

イベント
12/9 ポール・マッカートニー ブラジル サンパウロ Allianz Parque
12/10 11:00 『タッグ・オブ・ウォー』世界のツナ缶大事典 刊行記念サイン会(トーク付き)
12/10 14:00 『タッグ・オブ・ウォー』世界のツナ缶大事典 刊行記念サイン会(トーク付き)
12/10 ポール・マッカートニー ブラジル サンパウロ Allianz Parque
12/13 ポール・マッカートニー ブラジル クリチバ Estádio Couto Pereira
12/16 ポール・マッカートニー ブラジル リオ・デ・ジャネイロ Maracanã Stadium
2024/7~9 ポール・マッカートニー写真展 1963-64 ~Eyes of the Storm~ 東京シティビュー
2024/10以降 ポール・マッカートニー写真展 1963-64 ~Eyes of the Storm~ 大阪

Web配信
12/13 ポッドキャスト McCartney:A Life in Lyrics Helter Skelter

アナログ盤
2024/2/9 ダニー・ハリスン Innerstanding 2LP

TV , ラジオ
2024年3月まで 毎週日曜 13:00~13:50 ディスカバー・ビートルズⅡ NHK-FM
2024年3月まで 毎週金曜 10:00~10:50 ディスカバー・ビートルズⅡ (再放送) NHK-FM

映画
2024年 トノバン(仮)
2024年 Twiggy (ポール・マッカートニー出演)
2024年? Man on the Run
2024年? Daytime Revolution (ジョン・レノン&オノ・ヨーコ出演)

コンサート・フォー・ジョージ

映画「コンサート・フォー・ジョージ」の公開日&上映劇場(12/10現在)

公開中
岩手 盛岡中央映画劇場 019-624-2879

12/22(金)~
静岡 CINEMAe_ra 053-489-5539 12/28(木)まで
兵庫 シネ・ピピア 0797-87-3565